お蔭様で、連載20回目を迎えることができました。字数的にはたいしたことないのですが、自分の中での「90年代」を掘り起こして、論を再構築していく試みはなかなか刺激的であります。
90年代を比較するとき、やはり大きなテーマは「80年代の残した影響」という視点があります。
言うまでもなく、80年代は、実質GDPの成長率が高い数字をキープし、概して人々が豊かになっていった時代です。多少の増減はぬきにしても、5%前後の経済成長率を維持していました。
一転、90年代に入ると、実質GDPの成長率は下落します。特に、93年には戦後2度目のマイナス成長となり、その後も、80年代並に回復することはありませんでした。
あわせて、90年以降、1人当たりのGDPも伸び悩みます。
民主主義と成長率の関係性
以前、京都選出の自民党議員、伊吹文明氏の講演会に行った際、シンポジウム内で、森田実氏だったか伊吹氏だったかがこのような発言をされていました。
議会制民主主義と経済成長というのは、政治の安定的運営において両輪として機能しなければいけない。最低でも、2%程度の経済成長がなければ、議会制民主主義を安定的に運営するのは難しい。
ちょうど、2009年の夏、自民党が大敗した衆議院選挙の後の総括のタイミングでした。時の麻生政権は、リーマンショック以降の混沌の中で、打つ手もなく、自民党の大敗につながってしまった感覚があるようでした。
この発言の重要な部分は、経済成長率の上昇に裏打ちされた社会の安定性が民主主義を支える土台となるということです。
成長率が市場の土台を狂わせた
ここのあたりは、佐伯啓思氏の論が詳しいので、少し紹介したいと思います。
佐伯氏によれば、生産の3大要素である、労働・資本及び土地(または資源)に関しては、本来市場化されない、もしくはすべきではない分野でありながら、特に90年代以降はこれらが、市場化されていく構造改革が叫ばれて、実施されてきたとのことです。
こうなると、90年代以降の市場環境は非常に不安定なものとなります。家計にしろ、事業活動にしろ、先を見通しての投資や消費を行っていく必要がありますが、本来、不確定になるべきではない要素までもが不確定になっていったわけです。
このトレンドを加速させていたものは、関岡英之氏が『拒否できない日本』で指摘した「日米構造協議」における『年次改革要望書』であります。おおよそ、ここでアメリカから日本に要望されている内容は、労働・資本・土地(および資源)を不安定化させ、外資にとって有利な市場を日本に形成していくものでした。
そして、国内市場は低迷し、デフレ経済まっしぐらとなっていったわけです。
1993年・マイナス成長がもたらした改革ブーム
戦後、2度目のマイナス成長となった、1993年は奇妙なことに自民党の55年体制が崩れ、戦後初めて政権交代が起こった年でもありました。
ただ、政権交代が起こったことが問題なのでなく、ここから、今にも続いていく「改革ブーム」が始まったことです。政権交代の中心となった日本新党のスローガンは「責任ある変革」でした。
この「改革ブーム」は「構造改革」と名前を変えて、橋本内閣以降の自民党連立政権でも引き継がれていきます。そして、この「構造改革」が何をもとにして行われていたかといえば、先述したアメリカからの『年次改革要望書』なわけです。
この『年次改革要望書』の取り交わしが決まったのは1993年の7月、時の首相は宮沢喜一氏でありましたが、その翌月には日本新党を中心とした連立政権が自民党を倒してしまいます。
変な勘繰りかもしれませんが、まるで、『年次改革要望書』の内容を実行させるための内閣が用意されたようにも見えなくはありません。
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