まともな思考ができるために日本語力を鍛える
- 2015/2/12
- 教育
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私は、自分の勤務する大学で「個と集団」という講義を担当していますが、期末にテストを行います。先日その採点が終わったばかりのところです。
テストは論述形式で、授業で教えた内容にかかわることから五つほどの問いを作成し、それに答えてもらいます。どちらかといえば、知識を問うというよりは、学生が自分の頭でよく考えているかどうかを問う問題です。授業では毎回レジュメを配っていますが、これは持ち込み可です。ただし授業を聴かずにレジュメを見ただけでは、どう答えていいかよくわからないようになっています。
さていつも痛感することなのですが、採点をしていると、多くの答案のなかに次のような問題点が見出されます。
読み手に伝わらない、問題のある文章の特徴
①まともな日本語になっていない。文法的誤りだけではなく、論理的不整合、意味不明、文から文への脈絡の欠如など。
②一生懸命書いてはいるのだが、こちらが訊いていることに的確に応えていず、該当領域の周辺の事がらまでやたらと書きまくる。
③該当箇所のレジュメの文言をただ書き並べただけ。自分でそれらの語彙の意味が分かっているのか怪しい。
これらは、当大学の学生たちの限界だと言ってしまえばそれまでですが、私は、やはりいまの日本の初等から中等にかけての国語教育に欠陥があるのではないかとどうしても思ってしまいます。
その欠陥とは、ひとことで言うと、思考を書き言葉で表現する訓練の不足です。要するに適切な作文教育をやっていないのではないかということなのですが、この適切な作文教育という言い方のなかには、もっと根本的な注文が含まれています。私はこの問題をずっと考えてきました。
どんな表現行為・制作行為にも、それが他人の目に触れてそれなりの評価を得るためには、一定の基礎訓練過程が必要とされます。たとえば、音楽だったら、楽器を使いこなすための技術が必要とされますし、声楽でも発声訓練を積み重ねなくてはなりません。楽譜が読めることも要求されます。クラシックピアノが弾けるようになるためには、バイエルやツェルニーやハノンなどの基礎課程をくぐらなくてはなりません。
美術であれば、対象の量感、質感、奥行きなどをとらえるために、膨大なデッサンを重ねることやマチエールの使い方、色の出し方などを学ぶことが必要ですし、映画を撮るなら、どんな簡単な作品でも、カメラアングルの設定の仕方やカットごとのインパクトの出し方、全体の構成を考えた編集の仕方などをマスターする必要があります。工芸でも、道具の使い方や材料の扱い方などについて、相当の訓練を積まないとまともな作品はできないでしょう。職人芸、たとえば美容師や大工、料理人なども同じです。
これらはどの分野でも、一定のメソッドが確立されています。なにかを表現・制作したいと思う人は、一人前になるために、このメソッドに添って一定期間、頭と手を集中的に使うことが要求されます。そのためのテキスト(先人の作品や作品制作の手順)はすでに用意されており、専門のテキストに添ってレッスンを受けるための教育機関もたくさんあります。これらを通しての訓練過程を克服してようやく、個性的な表現をするための出発点につくわけです。表現における個性など初めから具わっているわけではありません。
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