まともな思考ができるために日本語力を鍛える

書き言葉表現を習得出来なかったのは何故か

 ところがここに一つだけ不思議な例外があります。言語表現(書き言葉表現)です。書き言葉をまともに使いこなすためには、ほかの分野と同じような基礎訓練過程がぜひとも必要なはずです。それなのに、書き言葉表現の訓練を本格的に授けるためのメソッドやテキストや教育機関というものが確立されているでしょうか。せいぜい、小中高の限られた国語の時間のほんの一部を使って、文章書きの専門家でもない教師が作文指導をするくらいです。

 その指導なるものも、テーマを与えて、「自分の思った通りに自由に書きなさい」と指示するだけでしょう。おそらく忙しい公教育の範囲では、よほど腕に覚えのある優れた教師でなければ、生徒一人一人の表現のつたなさをテニヲハの段階から具体的に指摘して添削指導を繰り返し、まともな日本語に仕上げさせるための指導を行うだけの力と余裕などとてもないでしょう。

 そもそも「思った通りに自由に書いた」文章が人々の厳しい評価に耐えるためには、その前に、ごく基礎的な日本語表現作法が身についていなくてはなりません。その教育と指導をおろそかにして、人にきちんと思想や感情や論理を伝えることなどできるはずがないし、相手の問いが何を要求しているのかを正確に把握できるはずがないのです。

 このおろそかさがはびこってしまったのには、次の二つの理由が考えられます。

戦後教育が「自由と個性」なる謳い文句を過度に尊重してきた。

多くの人が、言葉は思想を伝えるための単なるツールであるという思い違いをしている。

 の謳い文句は、あの悪評高い「ゆとり教育」によっていっそう促進され、いまもなおその隠然たる影響力を残しています。文科省の指導要領が方針としている「考える力を養う」などというのがそれです。考える力を養うというのは、一見けっこうに聞こえますが、どれだけの時間を割いて具体的にどういうカリキュラムを実践すればそれが養えるのかが少しも明らかではありません。かえって「個性を自由に伸ばす」と同じで、地道な基礎訓練のおろそかさを助長するだけでしょう。

 ですが、これは言語思想にとってとても大きな問題です。この「思い違い」に従うと、思想はまず心の中にすでに確固たるものとして育まれてあり、しかるのち言葉という「単なる手段」を用いてそれを表に出すという理屈になります。しかしこれほど誤った考えはありません。

 ためしに、だれでもいいですから、まだ言葉にならないある漠然たる観念なりイメージなりが浮かんだ時、それをどういう形で表現するかを試みてみればよい。書き言葉として形を成すためには、いかに頭と手を同時に動かさなければならないか、その労苦の大きさを知ることによって、この考えの誤りにすぐ気づくはずです。

 この考えがはびこると(現にはびこっているのですが)、人はだれでも思想としては成熟したものを持っているのだが、ただツールが未熟なためにそれを表現できないのだという幻想に支配されます。これは個人の「内面」というものの存在を確かな実体であるかのようにみなす倒錯です。「内なる思考」といえども、手を動かす行為や他者とかかわる行為が先立たなければ、けっして生きて動き出すことはありません。比喩的に言えば、人は頭と手の間、身体と身体の間で思考するのです。

 だからこそ、ちょうど泳ぎを覚えたり自転車に乗れるようになるために、実際にそれにかかわる実践的な活動に手を染めなければならないのと同じように、評価に耐えるだけの思考力を鍛えるためには、初歩から順に段階を踏んで「書く」という行為を絶えず試みなければならないのです。そうしてその結果を、書くことが得意な人の目にさらし、厳しいチェックを受けなくてはなりません。

 しかし、と反論があるかもしれません。多くの書き手は、別に特別のメソッドに添って学んだり、文章教室通いをした経験もないのに、立派に日本語の文章を使いこなしているではないか……。

 それは、生まれつき頭脳が優れ、言葉に対して鋭敏な感度と強い関心を持ち、小さいころから書くことが得意であるうえに、人知れず「独学」を積み重ねてきたからこそできることです。あるいは実際に書き出す前から、書きたいことを絶えず意識のなかで「内言」のかたちで反芻しているのです。

 私が問題としたいのは、そうした一部の少数者ではなく、書き言葉表現の欲求を持ちながら、実際にやってみると相手にうまく伝わるような日本語の文章をなかなか書けない人々です。そうして残念ながら、そういう人々があまりに多いというのが現実なのです。これは必ずしも学歴が低い人ばかりではありません。学者とか知識人とか呼ばれる種族のなかにもけっこういるのです。

 いったいなぜこういうことになるのでしょうか。書き言葉を表現するためのごく基礎的な訓練過程の必要は、なぜ切実に訴えられてこなかったのでしょうか。それには理由がある、と私は思います。

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西部邁

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  1. 2015-3-2

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