何の為に?英語教育推進の動機
昨年(2013年)の12月に、文科省は、「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」なるものを策定し、小学校中学年からの英語力の向上に向けて本格的に取り組むことにしました。
この計画で際立つところは、小学校中学年(3、4年)で週1~2コマ程度、高学年で週3コマ程度の英語授業を必修化させること、ゆくゆくは教科書を採択して2020年のオリンピックまでに教科として扱うこと、中学校の英語授業を英語で行うこと、などです。この方針に従って、今年度も計画実現のための審議が着々と進められているようです。さてみなさんは、この事態をどう思いますか。
まず考えなくてはならないのは、この方針を推進している人たちがどんな動機にもとづいているかです。
これは言うまでもなく、グローバル化というバスに乗り遅れてはならぬという焦りですね。そうしてそこには次の三つの「切なる思い」が重なっています。
①世界のヒト、モノ、カネ、情報の交流が盛んになって自由化が進むことは基本的によいことである。
②英語力を身につけなければ、日本は国際競争に負けてしまう。
③他のアジア諸国と比較して日本人は極端に英語が苦手であり、これまでの日本の英語教育は、国際社会で使い物にならなかった。
ではこれらの「切なる思い」をひとつひとつ検討しましょう。
①ですが、これは大きな錯誤です。現在グローバリズムの過度の進行が国際情勢に大きな不安をもたらしています。ヒトの移動は、欧米で深刻な移民問題を生んでいますし、資本(特に金融資本)の自由な移動は、貧富の格差を拡大し、世界経済を危機に陥れる根本的な要因になっています。また、英米系の提唱する「普遍的価値」としての「自由」の押しつけは、発展途上国の対外依存度を深め(つまり経済的な植民地化を招き)、その国々の国民をかえって「不自由」にしていますし、文化圏の異なる国々の政情不安定を生み出しています。いま起きているいくつもの紛争は、グローバリズムがその原因であるといっても過言ではないのです。
もちろん、いまさら国を閉ざすわけにもいきませんが、自国の主権と自主独立を失っては何にもなりません。戦後の日本国民の多くは、手ひどい敗戦を喫したために、何でも「開くことはいいことだ」と思いがちですが、その底にあるのは黒船以来の欧米コンプレックスです。グローバル化の趨勢には、国益(国民の福祉)を損なわない限りで、適当に付き合っておけばよいのです。
②ですが、国際ビジネスに直接かかわる個人や企業にとって、これはある程度までは当たっているでしょう。しかし日本は伝統的に職人国家であり、技術の錬磨や革新は、必ずしも語学力の向上を必要としていません。それが証拠に、現在でも日本の優れた技術とそれを支えるスピリットは、多方面にわたって最高水準を維持し、現に世界各国に輸出されています。これはだれもが認めるところでしょう。
英語、英語と騒いで教育や職業カリキュラムの中にそのための時間を無理に割り込ませれば、当然、地道に技術を磨き継承していくためのシステムがなおざりにされる危険があります。
③ですが、これが英語教育を何が何でも推進させねばならぬと考える人たちの直接の動機でしょうね。
たしかに日本の英語公教育は6年以上も施されているのに、まともに英語を使いこなす人たちを増やすことに貢献していません。しかしこの問題は、ただ公教育という枠の中で早期教育を施せば解決するというような単純な問題ではないのです。
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