『日本式正道論』第二章 神道

第三節 唯一神道

 吉田兼倶(1435~1511)は、卜部兼倶ともいい、室町時代後期の神道家で、吉田神道(唯一神道)の創唱者です。
 吉田兼倶の『唯一神道名法要集』は、唯一神道の根本教理書です。その中で〈吾国開闢以来、唯一神道是れ也〉と述べられています。吾国開闢以来とは、日本国が始まって以来という意味です。
 道については、〈道トハ、一切万行の起源也。故ニ道ハ常ノ道ニ非ずト謂ふ〉と述べられています。ここで〈道ハ常ノ道ニ非ず〉という部分は、『老子』の冒頭で見られる言葉であり、老荘思想からの影響がうかがえます。
 兼倶は、吉田神道に儒教・仏教・老荘思想の要素を巧みに取り入れ、この神道こそが万教の根本であり、儒教・仏教は神道の分化であるとする説を唱えました。〈吾ガ日本ハ種子を生じ、震旦は枝葉ニ現はし、天竺は果実を開く。故ニ仏教は万法の果実たり。儒教は万法の枝葉たり。神道は万法の根本たり。彼の二教は皆是れ神道の分化也〉というわけです。震旦は中国で、天竺はインドのことです。この考え方は、三教枝葉果実説と呼ばれます。この説からも分かるように、兼倶の考えでは、日本国は神が基本とされています。そこで、〈国は是れ神国也。道は是れ神道也。国主は是れ神皇也。太祖は是れ天照大神也〉という基本原則が立てられています。

第四節 国学の系譜

 国学は、記紀(古事記、日本書紀)などの古記や古文献に新たな方法意識をもって対した学問的立場と、それに伴った思想運動をいいます。江戸中期に成立し、日本という自覚を巡る言説が展開されています。
 国学の代表者は、「国学の四大人」として荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤の名が挙げられます。この系譜の先駆者として契沖がいます。この五名の思想をたどることで、神道と国学における「道」の伝統を見ていきます。

第一項 契沖

 契沖(1640~1701)は、真言宗の僧で、古典学者です。徳川光圀の依頼により、『万葉集』の注釈を執筆し、『万葉代匠記』を献上しました。その研究態度は、古書によって古書を証するという方針が貫かれていて、後の国学者たちに大きな影響を与えました。
 契沖は『万葉代匠記総釈』において、〈本朝ハ神国ナリ。故ニ史籍モ公事モ神ヲ先ニシ、人ヲ後ニセズト云事ナシ〉と述べています。神国とは、神意によって開かれた国のことで、日本の美称です。日本は神意によって開かれた国であることが述べられています。史籍とは、日本書紀以下の六国史などを指します。公事とは、神祇官が太政官に優先している管制などを指します。日本では、史籍も公事も、神が先で人が後なのだとされています。
 続いて、〈上古ニハ、唯神道ノミニテ天下ヲ治メ給ヘリ。然レドモ、淳朴ナル上ニ文字ナカリケレバ、只口ヅカラ伝ヘタルママニテ〉と述べられています。昔は神道のみで治まっていたことが述べられ、ただ文字がなかったので、口による伝承だけだったということが語られています。そこで注目すべきが、文字として残された『万葉集』になるのです。この『万葉代匠記総釈』の中では、「此道」として和歌の道が、「此集」として万葉集が捉えられています。『万葉集』の研究において、日本という自覚をうながした国学の伝統が始まります。

第二項 荷田春満

 荷田春満(1669~1736)は、江戸時代前期の和学者にして神道家です。国学の先駆者の一人です。
 『創学校啓』では、〈痛ましいかな、後学の鹵莽(ろもう)、誰か能く古道の潰たるを嘆かん〉と語られています。鹵莽とは、軽卒、不用意で、事を為すに疎略であることを指します。後世が至らないために、古学の道が潰えないかと嘆いているのです。
 続いて、〈この故に異教彼の如くに盛に、街談巷議至らざるところなく、吾が道かくの如く衰へ、邪説暴行虚に乗じて入る〉と述べています。街談巷議とは、市中に行われている低級な論議のことで、いにしえの教えを知らない者のために、古学の道が衰えていることを憂いています。虚とは、古学の行われぬ隙のことで、その隙に乗じて虚言や暴言が幅をきかせているということです。
 そこで、〈臣が愚衷を憐み、業を国学に創め、世の倒行を鑑みて、統を万世に垂れためへ〉と述べられています。愚衷とは、自分の真心をへりくだっていう語で、臣下として対策を提言しています。〈統を万世に垂れためへ〉とは、万世の後まで子孫が継承すべききっかけを残すことです。そのためには、世間で間違って行われていることを考慮して、国学を創るということが必要なのだと語られています。

第三項 賀茂真淵

 賀茂真淵(1697~1769)は、江戸中期の国学者です。荷田春満に入門し、荷田門の有力和学者として活動を行いました。晩年までに、『文意』・『歌意』・『国意』・『語意』・『書意』の五意が著され、真淵学が成立します。
 『歌意考』では、〈なほく清き千代の古道には、行立がてになむある〉と、唐土の思考や文化にゆがめられていない日本古来のもののよさを正しく伝える道が語られています。〈皇神の道の、一の筋を崇むにつけて、千五百代も、やすらにをさまれる、いにしへの心をも、こころにふかく得つべし〉とあり、日本では天照大神以来の道を一筋に崇めることで、長い間、心安らかに治まったのだと語られています。ですから、古道の心を深く自得すべきだとされています。
 『国意考』では、〈凡世の中は、あら山、荒野の有か、自ら道の出来るがごとく、ここも自ら、神代の道のひろごりて、おのづから、国につきたる道のさかえは、皇いよいよさかえまさんものを、かへすがへす、儒の道こそ、其国をみだすのみ、ここをさへかくなし侍りぬ〉とあります。荒山や荒野におのずから道が出来るように、日本にも神代の道がおのずから広がって国が栄えていることが語られています。ですが、儒教は国を乱し、日本の繁栄を乱してしまうと述べられています。
 さらに、〈唐国の学びは、其始人の心もて、作れるものなれば、けたにたばかり有て、心得安しと〉あります。儒教は人の心が作るものなので角張っていて理屈っぽいことばかりなので心得るのは簡単だとされています。ですが、〈我すべら御国の、古への道は、天地のまにまに丸く平らかにして、人の心詞に、いひつくしがたければ、後の人、知えがたし〉と、日本の古道は天地のままに丸く平らで言葉に言い尽くすのが難しいため、後世の人には概念としてとらえにくいのだと語られています。
 ですが、〈されば古への道、皆絶たるにやといふべけれど、天地の絶ぬ限りは、たゆることなし〉ともあります。日本の古学が知りにくいものなら絶えてしまいそうですが、天地の終わらない限り、絶えることはないのだと語られているのです。

第四項 本居宣長

 本居宣長(1730~1801)は、江戸時代中期の国学者です。京都に出て医学を勉強する一方、源氏物語などを研究しています。34歳のとき、「松坂の一夜」として知られる賀茂真淵との歴史的な出会いをします。真淵の手引きで、宣長は『古事記』の注釈作業を開始し、国学史上最大の業績『古事記伝』を著します。
 本居宣長の著書である『直毘霊』、『玉勝間』、『うひ山ぶみ』では道について詳細に言及されています。これらの著作から、道の記述を見ていきます。

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西部邁

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