「国家の輪郭」としての靖国神社 — 首相の靖国参拝に求められる「論理」について

9.「国家の輪郭」としての靖国神社

 ところで、このように考えてくると、靖国神社というものが上述のような「国家の二面性」をきわめて明瞭な形で象徴している施設であるということに気づきます。

  1. 靖国神社に祀られている英霊は、国民の生命を守ろうとして散った兵士たちであるが、その一方で彼らは国家によって死を強要された人たちでもある。
  2. 国家が神道形式で戦没者の慰霊を行うからといって、国内から他の宗教を閉め出すということにはならないし、靖国神社にはキリスト教徒であった首相や外国の要人も参拝している。しかし儀式を執り行うのである以上、特定の宗派を選択する必要があり(宗派の混合や無宗教という選択は、容易に「無意味化」や「カルト化」につながります)、歴史の長さと民間習俗への浸透度合いから、神道が選択されていると考えることができる。
  3. 靖国神社は戦争に関わる神社だが、戦争というのは「権利を守るために義務を果たさなければならない」局面の最たるものである。戦争に負ければ国民全体が様々な権利を失う可能性があり、それを避けるために国民は、義務を背負って全力を挙げて戦争に協力するのである。
  4. 戦争というのは、他国との関係における「依存」と「独立」の折り合いが付かなくなる事態であり、またその折り合いを回復するための荒療治であるということもできる。靖国神社を通じて我々は、「依存」と「独立」のせめぎ合いの歴史を思い起こすのである。
  5. 靖国神社という場で、我々は「戦争」という生々しい現実の出来事に思いを致すわけだが、一方で靖国神社は、兵士たちが「靖国で会おう」と言い残して戦場に散ったように、国民が共有する「物語」の大事な舞台でもある。
  6. 靖国神社は戦争に関わる施設であり、戦争とは、政治や経済上の利害対立を契機として人間同士が殺し合うという、きわめて世俗的な出来事である。しかし同時に靖国神社は宗教施設でもあって、世俗の哀しみや怒りを聖なる世界へと昇華させる場でもある。
  7. 靖国神社で我々は、過去の戦争について振り返るわけだが、そこに祀られている兵士たちは皆、日本国家の「未来」に希望があると信じて戦場に散っていったのである。
  8. 日本が戦った近代の戦争は、もちろん日本人自身の意思決定の連続ではあった。しかし振り返ってみれば、グローバル化や帝国主義といった19世紀から20世紀の世界史の流れのなかで、運命としか言いようのない力学に突き動かされて推移した面もある。

 つまり靖国神社を通じて我々は、先に述べたような「国家」の持つ二面性を、ありありと認識することができるのです。靖国神社とは、国家にまつわるこうした二面性を、その境界において象徴する存在なのだと理解すべきでしょう。しかもそれは、比肩するものがなかなか思い当たらないぐらい、存在感のある象徴です。
 私はこの意味において、靖国神社は「国家の輪郭」を指し示すものであると言えると思います。首相が靖国神社に参拝することの意義とは、その「輪郭」をなぞることで、国家のありようを国民とともに再確認するという点にあるのです。

10.特攻隊はなぜ我々の心を打つのか

 ここで、少し参考になると思うので「特攻隊」に触れておきたいと思います。
 靖国神社は『英霊の言之葉』という、戦没兵士の遺書や遺詠をまとめた冊子を発行しています。私は19歳か20歳ぐらいの頃に、当時刊行されていたものには一通り目を通しましたが、どうしても「特攻」で死んだ兵隊の遺書には特別な重みを感じてしまいます。
 特攻で死んだ兵隊が、たとえば満州で戦病死した兵隊よりも偉いかというと、単純にそうは言えないでしょう。ではなぜ特攻隊はこれほどまでに強い印象を我々に与えるのでしょうか?
 ここで私は、靖国神社が「国家の輪郭」をその二面性の境界において鋭く表現しているように、特攻隊というものは、「国家を形成して生きる動物」としての人間を引き裂くさまざまな「葛藤」を、その境界において最も鮮やかに象徴する存在なのではないかと思うのです。
 たとえば、特攻隊が「志願」によって組織されたのか「強制」によって組織されたのかは、二者択一的に解釈できるものではありません。人間の精神はもっと複雑にできていて、自発性と強制性はそう簡単に区別できないのです。「あれは志願制とは言っていたけど、実質的には強制だった」とよく言われますが、「単純に強制することもできたはずなのに、一応は志願制という建前を取らなければならなかった」という点に重みがあるとも言えるわけです。特攻という出来事が特筆に値するのは、そこに「個人の自由意思」と「国家による強制」の葛藤が最も激しい形で顕れ、衝突して火花を散らしながらも、最後には一つの決意として昇華されたからではないでしょうか。
 また、特攻隊は「非合理的」な精神主義の産物だったと思われていますが、考えてみれば、人間が操縦して敵艦に爆弾を当てるというのは、当時の手持ちの兵器の範囲内でいえば極めて「合理的」な発想であったと言うこともできます。特攻は、「精神主義」と「合理主義」の衝突を鮮やかに描き出す出来事でもあったのです。
 さらに言うと、特攻機に乗って出撃したパイロットは「人間」的であると同時に「機械」のようでもあるし、「勇敢な決意」とともに「センチメンタルな感情」を書き残してもいるし、「私的」な感情としては死にたいわけがないのに「公的」な使命に身を捧げて死んで行った人たちなのでした。
 「特攻」とは、人間精神が持つこうした「二面性」が、最も過酷な形で顕れた瞬間だったのであり、だからこそ我々はいつまで経っても、特攻隊のことが気になって仕方がないのだと思います。

→ 次ページ:「11.靖国神社は「ナショナリズム」を理解するための鍵である」を読む

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西部邁

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コメント

    • 萩原 和紀
    • 2014年 1月 03日

    靖国神社の意味合い、2面性、日本人としての精神の多面的な中の靖国神社という公共的な意思の形に表される2面性「同胞の死を悼む」「政治的な利用」を思索しそれを積み重ねて、落としどころを見つけて参拝するならすべきという事だと見ています。
     それと、靖国神社への参拝をこのような形で評してくれることを感謝しています、今まで他のメディアの評論や意見を見ても形はあれども中身がある様な無い様なと言うようなものしかなかった。と思うのは私の勉強不足なのかもしれませんけどね。

    • 川端
    • 2014年 1月 03日

    ありがとうございます。
    私は、上記の本文中では「不十分だ」みたいに書いてますが、一般のメディアの論評自体はすごく参考にしてきました。
    保守派の、一昔前に「新しい歴史教科書をつくる会」とかをやられていた先生方は、ほんとによく調べられて整理されていたと思います。
    ただ、結局のところその内容が、
    ① 年代も高く、もともと靖国神社に参拝するのが「自然」だと思っている人たち
    ② いわゆるネトウヨ的な、外国の悪口を言うことに過剰に熱心な人たち
    のいずれかにしか届かないのではないかという危惧があり、「若い世代の、ふつうの人」が靖国神社をどう受け止めるべきかというのを、考えていきたいと思いました。

    • 川端
    • 2014年 1月 03日

    本文に補足です。

    急に特攻隊に触れたくなったのは(笑)、この坂口安吾の『特攻隊に捧ぐ』という文章が頭にあったからです。
    http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/45201_22667.html

    反戦平和主義者であるはずの安吾が、特攻隊を絶賛しています。
    しかも、単純に絶賛しているのではなくて、ものごとの二面性を丁寧に捉えようとしているところが、すごい文章だな〜と思うのです。

    • 松田 隆
    • 2014年 1月 04日

     川端祐一郎氏のご意見は、一見、もっともだと思われる方が多いかと思いますが、もともと、靖国神社の歴史は主に幕末から昭和そして平成の現代に至るまでの、我が国の近代化に尽くしてきた人々をお祭りする神社であり、特にあの大東亜戦争で戦われた軍人達が死んだ後で、靖国神社で再会しようと誓い合った特別の神社であります。

     その靖国神社には政治問題化するまでは昭和天皇もご参拝され、今も生きている中曽根元総理大臣が参拝するまではここまで政治問題とはなっておりませんでした。

     靖国神社自体が当初から政治問題化する神社ではなく、マスコミが政治問題化したのは事実であり、川端祐一郎氏のご意見はそのことをもって論理破綻されているかと思いますが、如何でしょうか。反論を私のメールアドレスまでお待ちしております。

    • 川端
    • 2014年 1月 05日

    マスコミが政治問題化した歴史は知ってますよ。正確にいうと、参拝そのものが問題視されるようになったのは、中曽根首相の公式参拝の10年前に三木首相が「私的参拝」論を唱えたあたりからですが。60年代の終わりから70年代半ばにかけては、靖国神社法案(いわゆる国家護持法案)でもめていましたので、もっと前から靖国問題は政治問題だったとも言えます。

    松田さんが「政治問題化」とおっしゃってるのはたぶん「外交問題化」という意味でしょう。
    もしそうだとして、外交問題化のきっかけをマスコミが与えた面は大いにあると思いますが、そのことと、もともと問題化し得る要素があったかどうかは別問題ですよね。
    保守派の多くは、そもそも問題化し得る要素がなかったと思ってるみたいですが、私は少なくとも潜在的にはあるはずだと思ったので、その理由を本文で説明してます。
    また、もう既に問題化してるわけですから、「このケンカを最初に煽ったのはマスコミだ」なんて指摘してもあまり意味はなくて、単純に、参拝を推進する側には「正義」があるのだということを説明し続ければいいんじゃないかと思います。

    • 武津
    • 2014年 1月 08日

    よく考察された論文だと思います。
    靖国神社の存在を、いままでにない視点から解剖し展開したことはすごく新鮮でした。
    国家という存在の二面性を論じることは、いまとても必要だと思いますね。

    十分読み込んでから、改めてコメントします。こうした文章はメディアやネットに拡散することを願います。

    • 正直屋
    • 2014年 1月 08日

     中野剛志さんのメールマガジンに導かれて、川端祐一朗さんの論考に触れることができました。はじめてコメントを書かせていただきます。
     私もかねてより、靖国神社の慰霊施設としての性格ばかりを伝えようとすることに対して、またおそらくそれと軌を一にしてのことでしょうが、場所柄をわきまえず「不戦の誓い」を立てようとすることに対して、つよい違和感を覚えてきました。それゆえ、川端さんの論考におおむね賛同することができました。とはいえ、賛同しかねるところもあると感じました。
     おっしゃるとおり、靖国神社はもとより諸国の戦没者追悼施設はいずれも、対外戦争の顕彰施設としての性格を帯びています。しかしだからといって、戦没者追悼のあり方が外交問題化するのは当然だといえるでしょうか。やや飛躍しすぎるのではないでしょうか。それどころかむしろ、川端さんの論考を読み進めるほどに、外国の戦没者追悼のあり方に干渉してはならない理由がそこに書かれているように思えました。
     いかなる国家も固有の権利として、国防力を保持することができます。国防力を過大に保持していれば非難されてしかるべきですが、国防力を保持していること自体は非難されるいわれはありません。そして諸国の戦没者追悼施設は、たんなる慰霊施設ではなく顕彰施設でもあればこそ、国防力の中核あるいは基底に位置するものです。
     櫻田淳氏が靖国神社を「兵士の士気」を支える「安全保障装置」と呼んだのも、それを言わんとしてのことでしょう。川端さんはさらに本質に迫った論証をされています。私なりに理解したところでは、戦没者追悼施設は、国家と国民が生命の保護と死の強要とを交換する、あるいは交換したことを確認する場であるがゆえに、われわれが国民国家を形成しようとする切実な動機と結びついています。
     とすればなおのこと、生命の保護と死の強要との交換関係の外に立つ者が、戦没者追悼のあり方に干渉するのは、その国家の存立の基盤を破壊することにつながりかねません。そして、国家の存立の基盤を破壊することを許しては、国家と国家の間にルールは成り立ちません。戦没者追悼のあり方を外交問題化しないことを、国際社会のルールとみなすべきだと考えるゆえんです。
     日本が諸外国に対して、自前の歴史認識を語り始めるのは、たしかに厳しい覚悟を要するでしょう。それにくらべれば、国際社会のルールに立ち還れと、あるいは国民国家を成り立たせているところの万国共通の仕組みを思い起こせと説くほうが、ずっとやさしいのではないでしょうか。
     長文にわたり失礼しました。

      • 川端
      • 2014年 1月 28日

      コメント有り難うございます。
      おっしゃることは非常によく分かります。私がいいたかったのは、より正確には、「外交問題につながり得るような、心情的・道義的・思想的なわだかまりをかならず内包する」ということです。
      それが明示的な「外交問題」に発展するかどうかは場合によると思いますが、そうはいっても、暗黙のわだかまりはあってもおかしくないだろうということです。殺し合いをしたわけですし、一応お互いがお互いの「正義」を掲げて戦ったわけですからね。

      本文ではごっちゃになっていたので、分けて考えます。

      1.殺し合った「旧敵どうし」のわだかまり
       殺し合いをしたわけですから、当然わだかまりはあります。
       「どっちもどっち」な喧嘩であったとしても、やはり自分のじいちゃんを殺した相手のことは憎いのが普通でしょう。

      2.「正義」をめぐるわだかまり
       本文の中で「そして、戦没者の慰霊や顕彰というような行為は、もともと「正義」をめぐる対立を生みやすい話題だと考えるべきなのです。」と書いたのは、お互いが「正義」を掲げて戦ったということが前提になっています。
       それで負けた結果何が起きたかというと、日本の正義が外交上「否定」されてしまったわけです。

       で、これらのわだかまりが、「対等な対立」であればお互いにもう面倒だからあまり干渉しあわないようにしようというのも成り立つと思いますが、大東亜戦争はそうではないのです。

      正直屋さんが、

      > 国際社会のルールに立ち還れと、あるいは国民国家を成り立たせているところの万国共通の仕組みを思い起こせと説くほうが、ずっとやさしい

      と書かれていますが、日本側は東京裁判で「平和に対する罪」で裁かれたわけで、これって要するに、国際社会のあるべきルールを破った輩ということになっているわけですよね。
      だから、旧連合国(及び、「被害者」であるというスタンスに決めてしまった旧植民地である韓国)の論理を簡単に言ってしまうと、「そりゃ、それぞれの国家には対等な権利があるということで良いと思うよ。でも日本は、そういう国際秩序を破ったのであって、だから俺たちは怒ってるんだ。日本軍国主義は人類共通の敵なんだから、そんなものの象徴である靖国神社に首相がお参りするなんてもってのほかだわ」っていう話です。「靖国神社は、お前らのルール違反の象徴なんだから、そんなところで慰霊することを認めることはできない」という理屈になるわけですね。

      もちろん、この東京裁判史観はほとんど言いがかりだと思いますが、その言いがかりの論理がいまだにけっこう根強く生きているのに、それに正面から反論せずに「あくまで戦没者の追悼です」「戦没者の追悼は各国の内政問題です」とか言っててもそれは無理があると思います。
      日本の戦争は、ヨーロッパ諸国同士の植民地競争のような、「どっちもどっち」の戦争とは認めてもらえていないのです。極論すれば、テロ国家とかならず者国家みたいに扱われているわけですよ(笑)
      原爆を落としたアメリカのほうが、よっぽどならず者だと思いますけどね。

      結論としては正直屋さんのおっしゃる論理が正しいと思うのですが、そういう正しい論理の枠内で捉えてもらえる状況にないのが現状なんじゃないでしょうか。そういう状況で靖国神社に参拝するというのは、最初から「論戦」を仕掛けているのに等しいと思うのですよ。靖国参拝は、「日本はテロ国家ではなかった。ふつうに自国の生存のために戦っただけで、お互い様だ。文句あるか?」っていう主張を、明確に伴う行為だと思うのです。

    • 柴犬
    • 2014年 1月 09日

    素晴らしい考察だと思います。

    私が思うのは、靖国問題とは、靖国参拝にこだわりながら(否定でも肯定でも)
    自分たちが置かれている状況を直視し難く、逃げている日本人の精神性を象徴した問題ではないか? と、考えてみました。

      • 川端
      • 2014年 1月 28日

      コメントありがとうございます。

    • 和田
    • 2014年 3月 25日

    基本的には、靖国神社は国内問題である。そして、天皇の名で死んでくれという施設である。憲法には政教分離原則が存在する。 それにもかかわらず、靖国神社に公的性格を与えようとするのは、立憲主義の否定であり、国家神道の強制を狙うものである。 私は、天皇の名では死ねない。日本を反近代の祭祀国家に逆戻りさせるのはおかしい。   祭祀とは特定の共同主観を込めた宗教的象徴行為である。 祭祀を公的な存在にするということは、直ちに共同主観の強制に繋がる。  アイヌの熊送り、殷・アズテクの他部族生贄、マヤ・インカの自己犠牲・自己生贄、自然神への奉納はいずれも多神教としての自然神に対する賄賂のバリェーションである。  歴史・伝統・文化から自分たちが正統と考える国家神道的イデオロギーを恣意的に抽出し、合法的統治の下敷きにある正当性・妥当性・有効性の観点から物事を判断せず、血統的・系譜的レジテマシー正統にこだわり、それらを自ら奉じない者を異教・異端と言論弾圧する。 靖国を公的存在にするということは国家がそのような方向を目指すということだ。 他国に干渉されるから靖国参拝に賛同するということは、自我を処刑し、天皇に自己犠牲をささげようという究極の自虐である。 

  1. 2014年 1月 08日

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