サントリーホールで平和運動をしないでください

 さてアルゲリッチ氏が寄せたメッセージを読んでみました。「音楽には人を愛することを育み、人を傷つける気持ちを萎えさせる力が宿っているという信念」を持っているとのことですが、この信念は残念ながら必ずしも正しくありません。フランス国家「ラ・マルセイエーズ」その他、勇壮なマーチ、軍歌、革命歌など、戦意を昂揚させることを目的とした音楽はいくらでもあるし、リヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」のように、凡人の幸福をはるかな高みから見据えたようなイメージの曲もあります。また「アリランの歌」「五木の子守歌」などのように、屈折した恨み・憎しみを巧みに表現した音楽もあるからです。
 しかし私は、一音楽家がひとりの平和活動家としてそのような信念を抱いていることそのものを、別に非難攻撃しようとは思っていません。それは個人の自由に属する事柄です。問題は、そうした「信念」や「感情」のたぐいを政治的に利用しようとする企画者の意図にあります。
 このように言えば、アルゲリッチ氏はおそらく、自分は利用されたのではなく、この企画には自ら主体的に参加したのだと答えるでしょう(そしてそれはその通りでしょう)。しかし、この種の議論を少しでも生産的でより厳密なものにするためには、「利用」という概念の哲学的・社会心理学的な分析が必要となるでしょう。自分が自分自身に「利用」されることも、人間という複雑な自我の持ち主にはあるからです。アルゲリッチ氏について言えば、彼女自身の心づもりでは音楽家としての自分と優しい平和活動家としての自分とが何らの矛盾なく融合しているのでしょうが、本来両者は区別されてしかるべきものです。彼女もまた、ショパンの勇壮なポロネーズ「軍隊」や激情的なエチュード「革命」、シューベルトの重苦しい「魔王」などを何回となく弾いてきたことでしょう。

 そういうわけで、このイベントは、もともと演奏者も観客も善男善女であることを当て込んで仕組まれたもので、観客のほとんどは、アルゲリッチ氏の演奏とそのお嬢さんの詩の朗読行為との間にあるギャップに対して違和感など抱かないのでしょう。
 しかし繰り返しますが、私は「善男」ではないので、ここにいくつものおかしな連想ゲームによって成り立っている歪んだ意図を読んでしまいます。私のこの批判的な読みは、けっしてアルゲリッチ氏やそのお嬢さんや、広島交響楽団に対して向けられたものではなく、もっぱらこういう企画を立案して平然としている人、またそれを公共放送の電波を使って全国に堂々と流すNHKの番組プロデューサーに対して向けられたものです。
 なお平野啓一郎氏については、また別の意味で批判の俎上に乗せたいと思っていますが、それは別の機会に譲ります。
 まず、この企画がどういう順序で進んだのか知りませんが、企画者は、アルゲリッチ氏自身と母子関係にある人とが共に「平和活動家」であるという「縁」に飛びついたことでしょう。でもこの縁なるもの、じつはクラシックの巨匠の芸術的価値とは何の関係もありませんね。
 それはちょうど、フルトヴェングラーやカラヤンがたまたまナチス・ドイツの体制下で、一見その体制に「協力」しているかのような演奏活動を行なったからといって、彼らを非難するには当たらないのと表裏の関係にあります。音楽に政治的な思想性を求めるのは原理的に無理な話です。それはそもそも音楽という芸術形式が、人々のいかなる情緒にも対応できる抽象性を本質としているからで、天使の心情も悪魔のそれも表現できるからです。なので、それ自体としては、どんな具体的・現実的な政治思想にも結びつきはしないのです。
 ですからアルゲリッチ氏がどれほど優れた演奏家であっても、別に優れた平和思想の持ち主であるわけではありません(この「優れた」という形容が大事です)。要するに企画者やNHKの番組プロデューサーは、芸術家の名声と、彼女自身およびその子どもの「平和活動」とをただ安易に結びつけて利用しているのです。
 次に、企画者や番組プロデューサーは、今年は戦後七十年という大きな節目だから、この際、毎年行われている広島交響楽団の「平和の夕べ」に世界的大物を結びつけて、人の集まる首都圏で大々的に平和思想のアッピールをやろうじゃないかと考えたに違いありません。安っぽい興行師精神の見本です。後述しますが、そもそもこの「平和思想」なるものが、現実的な思考回路や歴史への視線を欠落させた陳腐で浅薄きわまるものなのです。
 もっと大事なことを言います。
 このコンサートでの詩の朗読は、「アウシュヴィッツ」と「ヒロシマ」とを並列させて行われました。しかしごく一般的に言って、アウシュヴィッツとは、ナチス・ドイツが初めから抱いていたユダヤ人に対する激しい憎悪・蔑視感情を、一民族絶滅の実践にまで高めていった、その思想を象徴するものです。しかもこの憎悪・蔑視感情は、非ユダヤ系のヨーロッパ人全体の間にはるか昔から広く(いまもなお)潜在していたものです。ヒトラーは、このあまねき潜在心理を明敏に読み取って権力拡張に利用したわけです。それは、第二次大戦における個別国家ドイツの軍事行動とは直接のかかわりをもたないのです(第三帝国完成というプログラムの範囲内には収まるかもしれませんが)。
 これに対して、「ヒロシマの原爆投下」は、明白にアメリカの対日軍事行動であって、両者をその非人道性や悲惨さという共通点だけをよりどころに同一視するような情緒的な把握は避けなくてはなりません。この区別をきちんとしないと、思想として残るのは、単なる戦争や殺戮一般という抽象的なものへの忌避を根拠とした抽象的な平和主義・ヒューマニズムだけになってしまいます。どこかの国の憲法のように。
 こうした同一視は単純でわかりやすいので、物事を深く考えようとしない多くの人に広まるわけですが、その結果、たとえば「ドイツはあの戦争を反省したが日本は反省していない」といった得手勝手な言い分や、最近の反安保法制の運動に見られるように、「安保法制は戦争や徴兵制への道」などというバカげた思考停止が導かれます。こうした言い分や思考停止の感情的な心理基盤は、この粗雑な同一視によって作られるのです。
 誤解のないように断っておきますが、アウシュヴィッツとヒロシマを区別せよといっても、アメリカの非人道的行為がナチス・ドイツのそれに比べて軽いとか、かつての連合国の理念のほうが枢軸国のそれに比べればまだましだとか言いたいのではありません。むしろ逆です。個々の歴史事象の質的な相違をしっかり見極めるところから、何に対してどう憤るべきかという正しい指針が生まれてくるのです。情緒的な同一視は、これこれの事態を引き起こしたのは誰かという具体的な問いを封殺してしまいます。

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西部邁

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  1. 2016-3-10

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