自分の感動を正直に受け取れなくなるほど、思想に縛られることの悲しさ
私の感想をはさみます。ここにはまず、加藤氏が文芸批評家としての初歩的な条件と資格を欠いている点がはっきりと表れています。
加藤氏は、百田氏の「イデオロギーを作品に持ち込まない」方法によって読者を感動させるやり方が、これまでになかった新しい現象だなどとナイーブなことを言っていますが、別にこれはちっとも新しい現象ではありません。ドストエフスキーはかなり頑迷な祖国派イデオロギーの持ち主でしたが、彼の大作のほとんどにはそうしたものは持ち込まれておらず、しかも大きな感動を世界中にもたらしました。また大江健三郎氏は明らかに幼稚な反日イデオロギーの持ち主ですが、彼の傑作、『飼育』『芽むしり仔撃ち』『セブンティーン』などには、そうした面などみじんも感じられません。井上ひさしは思想的には共産党シンパでしたが、彼の『薮原検校』は盲人の世界で権力を獲得していくぎらぎらした主人公を描いたスリリングな秀作です。イデオロギーなど持ち込まないほうが感動を呼ぶだろうというのは、すぐれた作家がたいていは身につけている平凡で古典的な感覚にすぎません。
加藤氏にとって百田氏の作品が呼ぶ感動と彼の政治的発言とが乖離して見え、そうしてそれがことさら新しい現象として驚きを呼び起こすのは、加藤氏自身が、自分の左翼イデオロギーと文学的な批評眼とを区別できず、自分のなかで両者をごっちゃにしているからです。文学者があるイデオロギーの持ち主であることと、彼が感動的な作品を書きうることとは、何ら矛盾しません。これは文学を批評するときの昔からの常識といってもよい。この常識を忘れた時、文学批評は、福田恒存が口を酸っぱくして言った「文学を政治的に語ることの愚」に落ち込むのです。
ところで、加藤氏の目からは、百田氏がウルトラ右翼思想の持ち主に見えるようですが、これこそは加藤氏自身の政治的な無知と甘ったれた戦後左翼思想をあらわしています。
私は、百田氏が「南京虐殺はなかった」と語ったり「憲法改正と軍隊創設」を主張したりした現場を知りませんし、それを発言した百田氏の肩を持とうとは別に思いません。しかし、一般的に言って、「南京虐殺はなかった」という議論が、いまや数多くの資料研究によって一定の説得力を持っていることは周知の事実です。特に偏った右翼的見解というわけではありません。
蒋介石が逃げた後の南京を攻略した日本軍は目的を達成できずに焦慮と疲弊のうちにありました。しかも多くの便衣兵が市民の中に潜んでいた当時の状況を考えると、おそらく多少の民間人殺戮行為はあったと考えるのが自然でしょう。でもこのたぐいのことはどの戦争にもつきものであり、ことさら日本軍だけが責められるいわれはありません。
それよりも、国威発揚のために反日宣伝に狂奔する現在の中共政府が、何の証拠もなく「30万人大虐殺」説を歴史的事実として国際社会に定着させようとしてきた事態や、それを嬉々として手助けしてきた日本の一部知識人・ジャーナリストや政治家のほうがはるかに問題です。加藤氏もまた、多くのお人よし日本知識人と同じく、この「白髪三千丈」式の宣伝に見事に乗せられているようです。
また憲法改正は、これもいまや国民の7割ほどが支持しており、別に少しも右翼的な偏向などではありません。軍隊創設という言葉は誤解を招きやすいかもしれませんが、もし自民党が党是としているように九条を改正するなら(私は当然改正すべきだと思っていますが[*])、自衛隊を国軍として認めることになるわけですから、「創設」と呼んでもあながち間違いとは言えません。
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