燃えオタ流・非モテ克服法とはー「燃え」は「非モテ」を救う?ー
- 2014/11/28
- 文化
- オタク, 非モテ
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オタクは非モテなのか。だが、それで良し!
オタクが非モテの象徴であるのならば、それはおおいに結構な事ではないか。自分が非モテであることを理解しているとは「自分が絶望していることを認識している」と同義ではないのだろうか。非モテというのは孤独からくる絶望の通俗的な呼称だが、その本質は「孤独」であり「絶望」である。
絶望といえばキルケゴールの「死に至る病」が有名だが、曰く自分が絶望していることに気づいていないこともまさに絶望の一つの形態であると言う。
本当に人生を空費しているのは、人生の喜びや煩いに心惑わされ、自己の本質を知らない表層的な絶望である。自分が「新しい自分になれる」という自由も忘れ、自己を見出そうとしない絶望に気づかず、ひたすらに快楽的な生き方に溺れる事だ。人は絶望しても生きていくことは出来るが、無意識に発生する虚無感は拭いきれない。それ故に人は自己の空白を埋めるべく、自分の外の価値観に自己を委ねようとする。
勿論、空想が自己を満たしてくれる事はない。故に無理して見栄を張り、自分より下だと思う人間を見つけ嘲笑するといった低い精神の次元へと落ちていく。実に現代的と言えるのではないだろうか。
キルケゴールによれば絶望には他に二通りある。ひとつは「有限性の絶望」である。これは自分自身を世間の価値観から理解するために生じる。絶望から逃れるために世俗の活動に没頭する事によって苦悩を紛らわせようとするが、まさに世俗に没頭する事によって世間の価値観からしか自分を見る事ができなくなり、やがて自分を見失い絶望してしまう。ならば、世俗的価値観から距離を置けば良いのかと言えばそうではない。宗教や社会変革、あるいは国家、人類、歴史、運命といった無限で具体性を欠いた抽象的なものに自己を一致させようとする行為も絶望を招くという。
ならば我々はどうするべきか。人間はつねに孤独と絶望のなかで生きているが、一方で我々は常に可能性という希望を常に見出そうとする。
確かに、孤独や絶望は煩わしい。自分はこのまま生涯孤独で誰に知られる事もなく野垂れ死ぬのではないか。そうした不安を完全に拭い去る事は難しい。否、不可能であると言って良い。
かかる不安のない人間など一人もいない。おそらく、生きている限り絶望から抜け出す事は出来ないだろう。しかし、希望は絶望を通じて以外には決して到達されえない。
なればこそ、「オタク」ならではの発想の転換をするべきである。
即ち「絶望」は「燃え」へのフラグだと思うべきである。思い返せば、ヒーローの戦いとは絶望の連続では無かったか。「あまりにも大きな力の壁、世界の闇」とは良く言ったものだ。否応無く戦いに巻き込まれ、倒しても次から次へと現われる強敵達、終わることなき戦いである。その度に傷つき倒れ再起不能に思える状態から何度も立ち上がったからこそ彼らは「希望」を掴むことが出来たのではないか。青銅聖衣が粉々に打ち砕かれても、尚も諦めることなく心の小宇宙を燃やしたからこそ、すべてを越える「神聖衣」が顕現した様に、我々は絶望的な状況をフラグとして脳内変換するべきである。流派東方不敗曰く「明鏡止水、されどこの掌は烈火の如く」である。
畢竟、絶望を自覚する事が「非モテ脱却」からの第一歩なのではないか。絶望に打ちひしがれた時にはベルトを思い描き、心の中で静かに「変身」と叫ぶべきだ!!「変身」と言う名の「希望」を胸に抱くべきなのだ!!
「オタク」よ!君は「ヒーロー」になれ!
しかしキルケゴールによれば、自分ひとりの全力を尽くして自分の力だけで絶望を取り去ろうとしているようなことがあれば、なお絶望のうちにあり続けてしまうと言う。自分ではどんなに絶望に対し戦っていても、それが逆に自分自身を深刻な絶望に陥らせてしまう。ここが非常に難しい。
常に有限性と無限性の間で揺れる人間のバランスをもたらすものに、キルケゴールは天主の存在を当て嵌めたが、日本人である我々にはキリスト教の価値観で行動するのは難しい。
自分自身を信仰すれば良い。つまり、自分の価値を自分で創造する他に無いのだが、これが滅法難しい。自分の価値観を自分で創造する、その為にはどうすれば良いのだろうか。
自分自身を進行する為の、「遠回りだが、確実な方法」は「他人を助ける」事ではないだろうか。何より、自己は自己自身によっては安定や均衡に達する事は難しく独善的になりがちだ。その為には「信頼できる他者」の力が必要だ。そして「信頼できる他者」を得るための、最も手っ取り早い手段が「他者を助ける」事ではないだろうか。それは功利的でもあるが、同時に倫理的でもある。無論、功利的な側面ばかりに偏っても駄目なのだろう。
つまり、大切なことは「他者を通し、自己のあり方を徹底的に追求する」ということでは無いだろうか。それは利他主義と利己主義の両立とも言えるが実に難しい。
その姿は図らずとも、我が国の誇るべき文化であるヒーロー達が示しているのではないか。かの魔戒騎士の最高位「牙狼」の称号をもつ青年は愛にはぐれ愛を憎み、愛を求め、僅かな安らぎさえ うち捨てたと言うが、だからこそ雄々しき姿の孤独な戦士は月満つる夜に金色になれたのではなかろうか。
個人が没個性化し画一化された現代においては、無責任な傍観者が横行し、量が質に優先して、主体的情熱が失われるのならば、だからこそヒーローへの憧れを熱く高鳴らせ、炎のように燃え上がり、戸惑うことなく動き出して世界を変える風になるべきであろう。誰にもわかるわけないと苦悩を気取る前に、Reckless Fireで大胆に魂に火をつけるべきだ。
世界とは自分自身のフィルターを通して描かれたものであり、君が「変身」すれば世界は変わる。
人は自分を見失ってしまいそうな時代の流れの中でも前を見て歩き続けなければならない。人生は闘いの連続とは良く言ったもので、我々は自分の全存在を欠けて闘わなければならないのだろう。死ぬ間際になって「あの時、ああしておけば良かった」と後悔しない為に。
コメント
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オタクではないただの女であるが、寺崎氏の論考は大変興味深い。
負の要素しか感じえない、絶望や孤独というもの、それが情熱と紙一重の関係にあり、燃える事、生きる事へのエネルギー源となる。
であるならば、今の私は完全にエネルギー不足状態に陥っているといえよう。
これは嘆かわしい事実ではないのか。
そんな現代を生き抜く為の、若者向け新・絶望論、寺崎氏に(勝手に)期待している。
最後に一つ反論を加えておこう。
寺崎氏はオタクではあるが、非モテではないのでは・・・。