燃えオタ流・非モテ克服法とはー「燃え」は「非モテ」を救う?ー
- 2014/11/28
- 文化
- オタク, 非モテ
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私は「萌え」よりも「燃え」だから悩まなかった!
私は「オタク」であり「非モテ」であるが、それを気に病んだことは無い。嘘の様にも聞こえるだろうが。個人的な体験を言わせてもらえば、十代の頃に年上の彼女と4,5年ほど交際し、その後も2人ほどとお付き合いさせて貰ったが、だからこそ言えるのは「恋愛って言うほど良いものではない」という事だ。これが三十歳以上でいまだ童貞ならば、また心情は違うのかもしれないが、恋愛なんていうものはパターン化された行動を繰り返しているだけに過ぎないのではないか。それは誰と付き合おうが、変わらないだろう。個人的な体験からすれば、そこが一点挙げられる。
では「現実の女なんて」と開き直り、恋愛ゲームなどの空想の世界に逃げ込んでいるのかといえばそうでもない。むしろ、その手のジャンル、いわゆる「萌え」系には全く興味を持ったことが無い。
何故私は「オタク」でありながらも「非モテ」である事を気にしないのだろうか。( そもそも「オタク」が「萌え」を好きだという事自体が偏見なのだが、それについては別の機会にでも述べたい。)
「萌え」に嵌らず「非モテ」である事を気にせず済んでいるのか、それは私の趣味嗜好が現在のオタク文化とは「似て非なるもの」だったからでは無いだろうか。ゼロ年代以降、美少女ゲームを原作とした所謂「萌えアニメ」が粗製乱造されたが、私はこうしたジャンルに全く興味が持てなかった。幼少時からロボットアニメや特撮ヒーローが好きだったと言うのもあるが、壮観で驚くほど緻密なセット、派手な天変地異や戦闘シーンなど驚嘆する映像にどっぷりと浸かってきた私には、他愛も無い日常で、何の苦悩も無い様な男がただ美少女と戯れてるだけの映像は退屈でしか無かったのだろう。そして何より一部の「萌えオタ」達による「俺達こそがオタク文化のメインストリーム」とでも言わんばかりに我が物顔で大手を振って歩いているところが気に食わない。ゲルマンに滅ぼされた後のローマ帝国の市民はきっと私と似たような感覚だったのだろう。ヤマト、ガンダムどころか海外SFも知らない、それどころか敬意もはらわない様な蛮族風情が我が物顔でクール・ジャパンとほざいてくる。これほど腹立たしい事はない!!フルスクラッチでフィギュアもつくれないくせにー!!!!
しかし、これが却って良かった。オタクのメインストリームが「萌え」に偏重し、それに反発する事で古今の「燃え」アニメをはじめ、有名ではないが「名作」の数々を体系的に視聴する事が出来た。また、それらの作品世界をより深く理解するため、古今東西のSFや哲学書などに目を向ける事も出来た。こうした切欠は、粗製乱造の美少女ゲーム原作アニメなどでは決して与えられる事は無かっただろう。「萌え」よりも「燃え」だ。「燃え」は知的好奇心を刺激し知識への扉を開いてくれる。そして何より、熱き血潮を呼び覚ましてくれる。それこそ「非モテ」なんてものを気にしなくなる程に心を熱くしてくれるのだ!
コメント
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オタクではないただの女であるが、寺崎氏の論考は大変興味深い。
負の要素しか感じえない、絶望や孤独というもの、それが情熱と紙一重の関係にあり、燃える事、生きる事へのエネルギー源となる。
であるならば、今の私は完全にエネルギー不足状態に陥っているといえよう。
これは嘆かわしい事実ではないのか。
そんな現代を生き抜く為の、若者向け新・絶望論、寺崎氏に(勝手に)期待している。
最後に一つ反論を加えておこう。
寺崎氏はオタクではあるが、非モテではないのでは・・・。