ナショナリズム論(4) 対ベネディクト・アンダーソン

近代的現象としての国家?

 ここでは、ベネディクト・アンダーソン(Benedict Richard O’Gorman Anderson, 1936~ )の『定本想像の共同体 ナショナリズムの起源と流行』を参照してナショナリズムについて考えてみます。本書においても、国民(ネーション)が近代的現象として語られています。

 ナショナリティ、ナショナリズムといった人造物は、個々別々の歴史的諸力が複雑に「交叉」するなかで、十八世紀末にいたっておのずと蒸溜されて創り出され、しかし、ひとたび創り出されると、「モジュール[規格化され独自の機能をもつ交換可能な構成要素]」となって、多かれ少なかれ自覚的に、きわめて多様な社会的土壌に移植できるようになり、こうして、これまたきわめて多様な、政治的、イデオロギー的パターンと合体し、またこれに合体されていったのだと。

 ナショナリズムが、十八世紀末に創り出されたという見解は妥当なのでしょうか。アンダーソンのナショナリズムの定義から、この妥当性を検討していきます。

国家=想像の政治共同体?

 アンダーソンは、非常に有名な国家の定義を述べています。

 国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体(イマジンド・ポリティカル・コミュニティ)である――そしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なもの[最高の意思決定主体]として想像されると。
 国民は[イメージとして心の中に]想像されたものである。というのは、いかに小さな国民であろうと、これを構成する人々は、その大多数の同胞を知ることも、会うことも、あるいはかれらについて聞くこともなく、それでいてなお、ひとりひとりの心の中には共同の聖餐(コミュニオン)のイメージが生きているからである。

 ここから、題名にもなっているように「国民=想像の(政治)共同体」という有名な定義が出てきます。この定義について、少しだけ厳密に考えてみます。この定義には、「想像の[Imagined]」・「政治(的)[Political]」・「共同体[Community]」という三つの単語が出てきます。
まず「共同体」についてですが、国民が共同体の一種であることには異論はありません。次に「政治(的)」についてですが、国民は文化的[Cultural]でもあるだろうなどのイチャモンをつけることもできますが、ひとまず同意しておきます。最後の「想像の」についてですが、この点については慎重な検討が必要だと思われます。ここでの「想像の」とは、会ったことも聞いたこともない人を含むということです。
「想像の」という用法には、会ったことのある相手の思いを想像するなどという使い方もありますが、そういった用法はここでは除外されています。ですから、実際に見知った家族などの共同体においても、他者の心の内を直接知ることはできないということから、家族も想像の共同体だと言うことは可能ですが、アンダーソンの定義ではこの可能性は除外されるわけです。
 簡単にまとめると、アンダーソンの言う「想像の共同体」とは、見聞きしたことがない人を含んだ共同体という意味なのです。そうだとするなら、「想像の共同体」は、国民に限らずに数多く存在することになります。例えば、人類もそうですし、キリスト教徒などのような同じ宗教に属する人たちもそうですし、村民だってそうなります。このことはアンダーソンも認識しており、次のように語っています。

 実際には、しかし、日々顔付き合わせる原初的な村落より大きいすべての共同体は(そして本当はおそらく、そうした原初的村落ですら)想像されたものである。共同体は、その真偽によってではなく、それが想像されるスタイルによって区別される。

 つまり、国民とは、ある特定のスタイルによって区別される想像の共同体のことなのです。そのため国民の定義としては、どのようなスタイルとして想像されるのかが、国民を理解するためにはより重要になってくるはずなのです。少なくとも、そのスタイルを問わなければ、国民が人類や村民とどう違うのか理解することができません。
 その想像のスタイルとして、アンダーソンは次の三つを挙げています。

  • 国民は限られたものとして想像される。
  • 国民は主権的なものとして想像される。
  • 国民は一つの共同体として想像される。

 「限られたもの」については、〈国民もみずからを人類全体と同一に想像することはない〉という考え方がベースになっています。あくまで人類を分割した場合の共同体を想定して、人類から限られたものとして想像されるということです。人類全体という考え方も、動物や哺乳類や霊長類という区分から限定されたものではあるのですが、そこまで広げるとアンダーソンの意図から外れてしまいます。この人類全体から限られたものというスタイルから、想像の共同体に該当する人類という枠組みが、国民という言葉から区別されることになります(国民 ≠ 人類)。
 国民のスタイルとして最も注目すべきは、やはり「主権的なもの」になります。この特徴のために、想像の共同体に該当する村民という枠組みが、国民という言葉から区別されることになります(国民 ≠ 村民)。そのとき、国民としての規範と村民としての規範が衝突する場合には、主権的な国民としての規範が優越することになるわけです。
 ちなみに「一つの共同体」については、〈水平的な深い同志愛〉がベースになっています。この同志愛の水平具合については、厳密に適用すると国民と呼べる存在がいなくなってしまうため、程度問題になります。
 まとめます。つまり、アンダーソンの言う国民とは、見聞きしたことがない人を含むという意味で想像上の、人類から限定された主権的な一つの共同体なのです。
 ただし、このような国民の定義を考えた場合、国民は近代に限らず、人類史を通じていたるところに存在することになります。ゆえに、アンダーソンが国民を近代的現象だと言うときには、この定義の上にさらなる特徴を重ねているのです。そのさらなる特徴の妥当性について、さらなる検討が必要になります。

→ 次ページ:「どのように主権的?」を読む

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西部邁

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