いま裁判員制度の是非を問う

 はじめまして。評論家の小浜逸郎と申します。今月から月2回、寄稿させていただくことになりました。よろしくお願いいたします。何にでも首を突っ込む気の多いたちなので、ジャンルは限定しません。
 なおさっそく宣伝で恐縮ですが、自分でもブログを運営していますので、興味を抱かれた方は、『小浜逸郎・ことばの闘い』までどうぞ。

映画『十二人の怒れる男』の指し示すものは

 さて初回ですが、少し硬い話題で、長くなります。どうか最後まで読んでくださいますように。
 週1回、大学のゼミを担当していますが、毎年学生たちにシドニー・ルメット監督の傑作法廷サスペンス『十二人の怒れる男』を見せて、感想文を書いてもらいます。事前にアメリカの陪審員制度と日本の裁判員制度について説明し、両者の共通点と相違点を指摘します。
 陪審員制度は、法廷での結審の後に、それを黙って聞いていた十二名の市民が密室で審議し、全員一致の評決によって被告が有罪か無罪かを決定します。判決そのものは、判事がその評決を受けた上で下すわけですね。
 これに対して裁判員制度は、三名の裁判官に市民から選ばれた六名の裁判員が加わり、法廷での審理過程のすべてを共有し、判決も九名の合議によって決めます。この決め方には複雑なルールがあるのですが、それは省略しましょう。
 ところでこれは以前にも書いたことなのですが、この映画は、さまざまな階層・職業・性格を抱えた市民たちが対等な立場で徹底的に議論し、最後に「被告少年は無罪」という評決に達する筋立てになっています。ですから不注意に見ると、アメリカの民主主義とヒューマニズムの素晴らしさをうたい上げた作品であるという感想を抱きがちです。
 しかし陪審員の多くは、とんでもない偏見の持ち主や、息子との関係でトラウマを抱えた人や、野球見たさにさっさと有罪にして早く帰りたくて仕方がないいい加減な男や、仕事の話にしか興味がない宣伝マンや、まじめに取り組もうとしてはいても、じつは法廷での審理から受けた心証に完全に拘束されている人などによって構成されています
 もしヘンリー・フォンダ演ずる8号陪審員の粘り強い努力と言論への使命感がなかったら、被告少年を有罪とするのに五分とかからなかったでしょう。しかも8号陪審員は現実には存在しえないスーパーマンなのです。スーパーマンの活躍――そこがこの映画を面白くしている最大の点です。エンターテインメントであることを忘れてはなりません。
 ということは、この映画は別にアメリカ社会に根づいている民主主義やヒューマニズムの素晴らしさを写し取ったものではなく、むしろ一般民衆というものの公共心の欠落や、情緒的判断に流れやすい傾向を赤裸々に描き出したものだということになります。もっと言えば、この映画からは、民主主義思想の体現とみなされている陪審員制度が、いかに大きな問題点を含んでいるかというメッセージを受け取ることも可能なのです。

日本の“裁判員制度”に問題はあるか

 さて話を現代日本に移します。
 女児虐待死事件で傷害致死罪に問われた被告男女が、第一、第二審で求刑の1.5倍の判決を受け、今年(2014年)7月に最高裁がそれを求刑以下に減刑する判決を下しました。第一審は裁判員裁判でした。最高裁判決で特徴的だったのは、裁判員裁判の量刑判断に言及し、過去の量刑傾向を考慮すべきこと、その傾向と異なる量刑にする場合には、「具体的、説得的な根拠」を示すように求めたこと、です。
 裁判員裁判におけるいわゆる「求刑越え」の判決は、他の裁判(裁判官裁判)に比べると、たいへん多くなっています。最高裁の調査によれば、 裁判官裁判(2008年4月以降)で「求刑超え」とされた被告は2人で、全体の0.1%。これに対し、裁判員裁判(施行された2009年5月以降)では1.0%にあたる43人だそうです。
求刑1.5倍判決見直しへ 裁判員「求刑超え」出やすく – MSN産経ニュース
 この傾向と数字について私は、ヒューマニズム的な観点から、そんなに重い刑にするのは被告人に酷ではないかと言いたいのではありません。量刑は運用する法律と個々の犯罪事件の具体的な実態と過去の判例に基づいて判断すべきものですから、事と次第によっては、たとえ重い刑が増えたとしても、そのこと自体は構わないと思います。
 問題は、裁判員裁判の特質です。求刑越えが裁判官裁判に比べてこれだけ顕著に多く見られるということは何を意味しているでしょうか。私の考えでは、次のようになります。

①検察側の「求刑」というのは、司法のプロがそれなりに近代司法制度の概念の深い理解に基づいて、しかもこれまでの経験と判例と事件の状況とを勘案しつつ決めているので、それをむやみに超えた判決を下すことは、伝統的に考え抜かれてきた対審構造の均衡そのものを破ることである。この事態が頻発すれば、「検事=刑事裁判の原告」という役割そのものが軽視または不要視されることにつながりかねない。

②この均衡破りが裁判員制度に由来することは明らかで、そこには、裁判員という司法の素人がアド・ホックに情緒的な判断を下していることの影響が認められる。

③この事態は、少し誇張すれば、『12人の怒れる男』のように「5分で有罪」的な判断を許容することになり、もっと延長していけば、近代国家の秩序の大切な表現のひとつである司法制度を、無秩序な人民裁判的なものに堕落させることになる。

 以上の考えから、私は、今回の最高裁の減刑判断と裁判員裁判への要求を是とするものです。
 ちなみに、現在の日本の裁判員制度においては、裁判員の選択は無作為抽出という建前になっていますが、じつは妥当な人を選ぼうという裁判所側の相当程度の選抜意志がはたらいていると私はみています(これはもちろん明らかにされていません)。
 また、候補者のうち非常に多くの人々がさまざまな理由で参加を拒否しているので、その過程で、実際に裁判員として残る人はかなりスクリーニングされ、ある程度法的な常識を持ち、心に余裕があり、しかも公共的な仕事に意欲を示す人に限られるだろうと想定されます。
 ですから、現在選定される裁判員の方たちが、『12人の怒れる男』に出てきたような無責任な男(女)たちである可能性はかなり少ないとは言えるでしょう。しかし、それにもかかわらず、素人が司法にかかわると、その場の情緒に流されたこのような均衡崩しの傾向があらわになってくるというところが、まさにこの制度の問題点なのです。
 私は別に、司法官僚がすべて優れているなどというつもりはありません。とんでもない判決を下した裁判長を目の当たりにしたこともあります。ただ、それなら法の素人に参加してもらえばより公正な判断が成立するのかといえば、そんなことはなく、かえってポピュリズム的な傾向を助長するだけではないのか、と言いたいのです。より公正な裁判を実現させるためには、人間生活に対する鋭敏なセンスと浩瀚な法知識との両方を備えた人材を、時間をかけて養成する以外にないと思います。
 そもそも陪審員制度がより進んだ民主主義的制度だと考えるのは、大きな誤りで、アメリカでもその弊害が反省されて、その実施頻度は年々減少しています。日本の裁判員制度は、もともとアメリカの陪審員制度を是が非でも日本にも持ち込みたいとする勢力と、今までの制度を保守しようとする勢力とのイデオロギー的な妥協の産物です。前者の勢力は、民衆の直接政治参加が理想であるという戦後民主主義イデオロギーにすっかりやられているのです。

→ 次ページ「裁判員制度設計の立役者、四宮啓氏のことばを読み解く」を読む

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西部邁

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コメント

    • 天道公平
    • 2014年 10月 02日

    裁判員裁判の制度の不備については、以前から腹立たしい思いをしている。裁判の審議の過程で、その不当性について、裁判員が、訴訟で争っているのではないか。日本の司法制度の退廃ではないのか。自己の責務と、職責の重さを、意に反して、無辜の市民に振るとは、全くふざけた話だ。かつて見た「馬鹿の民主党」の首班の、恥知らずの言動を連想させる。「職業選択の自由」があるのに、殺人現場の写真を、何故見るように強要され、見ないことで指弾されなくてはならないか。筆者のいうように、人民裁判と公開処刑に続くような愚かで、恥ずべき制度だと思う。

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