さて、前回の破では、1995年以降の日本では、不可逆性が崩壊してしまったということを主張しました。簡単に述べると、「わたし」と「あなた」の境目が非常に曖昧になってしまったということです。
時を前後して、教育現場では「ゆとり」や「個性を重視」などといった言葉が前面に出てきます。要は、「わたし」と「あなた」の境界線を「勉強の成績」や「学歴」以外で定義できる人材を育てるという国家の方針が示されたわけです。
誰かから与えられる「わたし」と「あなた」。
私、神田の定義では、90年代は2001年の9月11日に終わるわけですが、同年の3月28日、今となっては日本で一番CDが売れた日といわれています。といういのも、当時人気の絶頂だった、宇多田ヒカルがセカンドアルバムを、浜崎あゆみがベストアルバムを同日に発売したからです。
平日だったのですが、朝7時から、最寄り駅のTSUTAYA前で店頭でのブース販売がありました。そこで購入してから、学校へ行ったことも覚えています。
この同日発売もエイベックスの意図によって、浜崎あゆみのベストアルバムを宇多田ヒカルのアルバム発売日にぶつけたことが、宇野雅正氏の著作『1998年の宇多田ヒカル』の中で述べられています。
ただ、本論の中で言えば、私、神田は宇多田ヒカル派だったので、「わたし」は宇多田ヒカルで、「あなた」は浜崎あゆみでした。しかし、この「わたし」と「あなた」の違いは厳密に言うと、存在しない、可逆的なものなのです。
もし、私の好きだった女の子が宇多田ヒカルの面影をもっていなかったら、「わたし」は浜崎あゆみで、「あなた」が宇多田ヒカルだったかもしれません。
少し、話は飛びますが、ゼロ年代に入り、流行した『世界に一つだけの花』に関しては、もはや「わたし」しか世界には存在しないし、それでいいじゃないという割り切った歌詞になりました。
個を尊重しているようで、群衆の中に個を埋没させていったゼロ年代のイメージ通りの楽曲だったといえるでしょう。
「わたし」と「あなた」の可逆性とグローバル化
ここまで、「わたし」と「あなた」の境界が薄れてしまった日本人にとって、国際社会においても、また、「わたし」と「あなた」という色分けが不明瞭になってしまいました。
しかも、90年代は2001年の911テロで、サミュエル・ハンチントンが描いていた「文明の衝突」の世界観が現実のものとなるまでは、フランシス・フクヤマの「歴史の終わり〈上〉歴史の「終点」に立つ最後の人間」の歴史観を日本は取っておりました。その歴史観は、「いずれ、世界はアメリカ型社会に飲み込まれていくだろう」という安易なものであり、グローバル化という名のアメリカナイゼーションにも全くもって、抵抗がなかったわけです。
今さらといった感じもありますが、「わたし」と「あなた」の境界線が曖昧になった日本人がポスト冷戦で新秩序を構築する際、フランシス・フクヤマのような歴史観で世界を見ていたら、「リトル・USA」になることは規定路線だったといえるでしょう。
つまり、「わたし」と「あなた」の境界問題は、国際舞台における日本人のアイデンティティクライシスとなって表れたわけです。
日本人にとっての「あなた」はどこまでも米国
ちょうど、良い材料を見つけたのですが、橋本首相がナショナルプレスクラブにおいて、1997年4月25日に行った演説、「日本の進路と日米関係」です。
いくつか、印象的な言葉を引用しましょう。
この一世紀の間に日本と米国は、過去の悲劇的な対立を乗り越え、異なる文化的背景の中で、同じ価値、同じ夢を分かち合い、今や同盟国として協力の翼を全世界に広げております。21世紀におけるアジア太平洋の姿は、まさに日米両国がどのような進路を取るか、そして如何に力を合わせるかによって決まると言っても過言ではないでしょう。
(中略)
日本の規制緩和や経済社会の構造的変化は、既に進みつつあり、これにより米国企業の対日市場アクセスも増大しつつあります。
(中略)
このような構造の変化は、日米経済関係に良い影響をもたらしており、長期的に見て、日本の対米貿易収支黒字は減少の傾向にあります。今後出てくる個別経済問題についても、そのうちの多くは日本の六つの改革の中で解決されていくものと信じております。また、私は、日米双方の長年にわたる経験の蓄積が摩擦を減少させていくことにより、日米経済関係を一層深めていくことができると確信しております。
(中略)
近年アジア太平洋地域では、APEC、ARF等の多国間の対話と協力の枠組みが形成されております。これらは、域内国がその発展の悩みを分かち合いながら解決策をコンセンサスで見出して行こうというアジア的なアプローチで進められておりますが、このプロセスを日米両国が尊重し、また成功に導いていくことが重要であると考えます。
掻い摘んで引用しただけでも、米国の評価こそが、日本の規制緩和の成否をわかるものであるという自覚がひしひしと伝わってきます。
「わたし」である日本人は「あなた」である米国の評価を得るためにどこまでも、「あなた」になろうとするが、それは同時に徹底的な「わたし」の否定でもあるわけです。
もしかすると、その反動が今の「無根拠に日本を礼賛する自国民」といった形ででているのかもしれませんが。。。
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