あなたの思い込みから言論抑圧は生じる
- 2014/12/18
- 歴史, 社会
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あなたが得たものが誰にとっても普遍的であると言えるかどうか、きちんと顧みて欲しい
私は、言論抑圧とはつまるところ、議論や意見の擦り合わせを怠り、価値観やイデオロギーを押しつけるものであるように思う。私たちは自分の価値観を正しいと思い込みがちである。しかし、その価値観を強要することすらも正しいと思い込んだときに、言論抑圧になるのではないだろうか。私たちは様々な体験を通して、自分なりの考え方や価値観を身につける。それは目に見えるものや、意識的に学ぶこともあれば、文化や伝統など、無意識のうちに身に付いているものもあるだろう。しかし時と場合によって、それらには懐疑する必要性があることを忘れてはならない。
脅迫事件の犯人は、議論という手続きを飛ばし、自分の主張を相手におしつけた。ここで言う相手とは、元朝日新聞記者ではない。そして私は、大学でもないと思う。なぜなら、元記者の勤務先を知っている犯人は、直接的に彼を傷つけることもできたはずだからである。大学に対しても同様に、何かしら直接的に攻撃することはできたはずなのだ。犯人は学生という人質をとって、間接的に組織を疲弊させようとした。犯人の目的は、誰かを傷つけることでもなく、より良い社会を目指すことでもなく、”承認を得たかった”ということではないだろうか。理屈は、だだをこねる子どもと同じように思う。自分の思い通りにいかないことに対して、議論をするのではなく、相手を困らせる。それによって、自分の主張を通してしまおうということだ。
では、犯人が主張を押し付けた相手とは誰なのか。それは、私たちではないだろうか。つまり、”社会”に対してだ。社会というものを具体的に捉えることはできない。しかし私たちは、その曖昧な共同体の中に、自らが属しているということを確認したい。それは今回の犯人だけに当てはまることではなく、私たちはどこかで、社会の一員であることを自覚したいと思うのではないだろうか。犯人は議論や意見の擦り合わせという手続きを飛ばして、手っ取り早くその承認を得たかったのだ。
私たちが何かを議論するとき、ある共通の議題に対して、参加者それぞれが考えをもつ。自分の発言に対して誰かがコメントをせずとも、共通の議題に対する別の人の意見を聞くことによって、自分が参加者であるという自覚を得る。この自覚こそが、承認ではないのか。誰かからのレスポンスを待つのではなく、自らがそのコミュニティに参画していること、それ自体を通して、私たちは承認を得ていると自覚できるのだと思う。犯人がもし本当に承認を得たいと思ったのなら、議論という一手間をかけるべきだったのだ。
最後に、いくつか問いかけをして、本稿を締めたいと思う。
私たちが正しいと思い込んでいることは何だろうか。また、広めなければならないと思い込んでいることはなんだろうか。私たちが考え、導いた意見は、どこに投げかければ、意義のある議論となりうるだろうか。
私たち自身が、言論を抑圧するか、議論を深められるかを決める当事者である。
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コメント
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JONさんの意見に賛同致します。しかし、巷間取り沙汰されているとは言え朝日新聞の捏造報道の問題点を踏まえないままに脅迫事件のみを取り上げるのは若干バランスが悪いかと思いました。