「選択と集中」を採用した国家は、ショックに対して脆弱になる
- 2013/11/5
- 社会
- 宮台真司, 東浩紀
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「選択と集中」を採用した国家は、ショックに対して脆弱な構造になる
この議論のどちらに分があるのかといえば、現実の韓国、イタリア、ギリシャといった国々の惨状を見れば明らかでしょう。さらに、付け加えるとこのように緊縮財政を行い選択と集中という戦略を採用した国家は同時に様々なショックに対して非常に脆弱な構造になってしまいます。
例えば韓国は経済危機以降、宮台氏が主張するように選択と集中を続けてきました。具体的には製造業への産業の特価と輸出の特価による外需依存を進めてきたのです。結果、何が起こったかといえば、日本がアベノミクスによって円安誘導を行って少しウォン高になってしまっただけで、輸出を中心とした製造業が壊滅的な打撃を受け、そのショックが瞬く間に国家全体の危機へと拡大してしまいました。
つまり、極端な選択と集中を行った場合、一つの分野や一つの産業がダメになると他の分野でカバーできない(具体的には一つの分野で発生した失業者を他の産業によって吸収することが出来ない等)ため一気国家全体の経済が悪化してしまうということです。
逆に言えば、一つの産業に過度に特化させるようなことはせず、場合によっては一見自国でまかなうことが非効率に見える産業であっても、あえて様々な産業を国内に残しておくことが、国内の労働者の選択の多様性を産み、同時に国家の産業政策の多様性をも確保することにより、よりショックに強い強靭性(レジリエンス)を持った国家となることでしょう。
つまり、以上の事を踏まえるのであれば、今後の政治の役割は、宮台氏の述べるように支えられない部分は切り捨て、選択と集中により効率的な国家を目指すことではなく、むしろ逆に、放っておけば潰れて消滅してしまうような地域や産業を政治の力で支えることにより、人々の選択や国家戦略の多様性を確保することが重要なのではないでしょうか。
コメント
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宮台・東の議論はアメリカの法学者サンスティーンの議論を踏まえ熟議を土台にした「参加型民主主義」で自治を行おうというもので、それができないとき日本政府は優先順位をつけて、最終的には復興不可能な地域には予算をつけないと言うものだと思います。
彼らの議論の土台にあるのは「小さな政府と大きな社会」です。これは資本の移動を含む産業のグローバル化が不可避である現状を肯定しつつも自分たちが住む地域のことは自分たちで決めるという大原則(地方自治)のもとで(予算配分や情報公開などの)優先順位を決めていきましょうということです。その議論が被災地でできなければ政府が出てきて「選択と集中」を(やむを得ず)やらなければならないという事態になるから松本龍元復興大臣は智慧を出した地域に優先して予算をつけると言ったのでしょう。
韓国に関して言えば国家が出張って産業構造改革を行った結果、一部の財閥にだけ富が集中するという歪んだ資本主義が形成され、それが社会の腐食をもたらしていると考えます。
では弱者を救うために税率90%になって「悪平等」な社会主義国になっても良いのでしょうか。
弱者を救うということは、強者への(正当な)分配を無くしてみんな手を繋いでゴールするということです。
ちなみに、著者が「弱者切り捨て」と批判するところのギリシャやイタリアは高負担かつ公務員優遇という「大きな政府」なのですけど、ギリシャやイタリアがダメなら「平等な分配政策」が敗北したと言うことになりますよ。
選択と集中というのは公共投資の商業的利潤化であり、それは地方の切り捨てになるという訳ですね、つまりは、採算性が無い地方なら尚
更財政による公共投資は必要であり、政府の借金(便宜上の借金という解釈であり国民から見れば貸した金である)が増えることになって
もこれからの為、将来世代の為に公共財は残さねばならないという事でしょうね。
そして、イタリア、ギリシャは緊縮財政を迫られ公共投資が出来ない、つまりは経済成長が許されない状況に有り、更にはガス、水道
電力の民営化による国民への負担の増加も考慮すれば正に(社会性、公共性の否定)であって、それはその国や地域に住む人々への人間性
の否定になると思われます。