ポジティブシンキングに偏りすぎることの問題
- 2014/3/26
- 社会
- 2 comments
この文章で最初に、「信仰者のほうが懐疑論者よりも幸福であるという事実は、酔っぱらいのほうが素面の人間よりも幸せだという以上の意味はない」という言葉を引用しましたが、つまりティディベアを抱きしめ、やさしい微笑みを浮かべながら死を迎えるべきだという考えは、素面での正常な思考を持って死を直視することを拒否し、酔っぱらいのように脳みそを働かせないほどにとろけさせてわけのわからないままに死を迎えようということ以上のなにものの意味も持たないのではないかと思います。
「死ぬのは仕方がないと思ったが、ティディベアを抱きしめたりやさしい微笑みを浮かべたりして死にゆくべきだという考え方は、たとえどれほど人生を達観していても、受けいれる気になれないものだった。」ということは、仮に日本人なら、死ぬときには、ゆるゆるふわふわの可愛らしいゴスロリの衣装を着て、たくさんの可愛らしいぬいぐるみと両の手に持ちきれないほどの甘いキャンディーやチョコレートに囲まれながらの死ではなく、ただ、真っ白な死装束を着て一本の刀を持ち、そして人間としての尊厳を心に宿しながら迎える死でありたいと、少々抽象的に例えるならそのような意味なのではないかと思います(ところで著者の述べる「スナイパーに打たれて、あるいは車にひかれて、すっぱりと、尊厳をもって死にたい」とは、なんとアメリカ的な死であることでしょうか)。
これは、ポジティブシンキングが及ぼす生死観に関する問題ですが、他にもポジティブ思考で病気が治り願望が現実化すると主張する疑似科学や、そこから派生するビジネス本の出版や企業向けの講演で利益を上げる産業が誕生したり、さらに一部のキリスト教のセクトとも結びついての宗教化・イデオロギー化という問題も発生しています。
最後に、私が以前ある知人と行った議論を例に出して、ポジティブシンキングの問題点について考えてみたいと思います。
ポジティブシンキングを支える力、それがネガティブシンキング
以前、知人の一人と、評論家はポジティブな見解を提示するべきか、ネガティブな見解を提示するべきか?という議論を行いました。その時は、議論をわかりやすくするために、ポジティブな見解を提示することを希望派、ネガティブな見解を提示することを絶望派と名づけ、どちらの評論家の方が、国家にとって有益であるかについて議論しました。もっとも冷静に考えれば、ポジティブな見解を提示する人間にも、ネガティブな見解を提示する人間にも、それぞれ役割があり、そもそもどちらの方が有益か?という議論は、サッカーにおいてフォワードとディフェンダーのどちらの方がチームにとって有益であるか?というような馬鹿げた問いに近いものがありますが、そのような考えは一旦脇に置いて、とりあえず、その希望派と絶望派で、どちらの方が有益であるかについて議論したわけです。
私が「やはり現在のように多くの国民が様々なリスクについての正確な理解を欠いている状況にあっては、絶望派の人間が声を上げて現在の日本や世界が抱えているリスクを正しく認識させるよう努力することが不可欠ではないか」と述べたのに対して、希望派である知人は、「絶望派では、世の中は動かない。実際に人々を動かすには、どうしてもポジティブなビジョンを提示することが必要だ」という趣旨を述べていました。
どちらも正論ですが、それでも何かもやもや感が残ります。何でも物事をポジティブに捉えようとする考えには、何か落とし穴が存在するのではないか?と、そういう気分が消えなかったわけです。そんな気分を抱えながらある日、山名元、森本敏、中野剛志の3名による著作『それでも日本は原発を止められない』という本を読んだときに、「なるほど!!」と思えるような記述を見つけました。
山名 自分自身の経験から言うと、技術者にも“抜け”があるのです。それは否定しません。今までいろいろな研究をして論文を書いていましたが、人に間違いを指摘されて気づくことがよくあります。自分の考察マインドの中で、ある部分を見落としていたり、あるいは感性が鈍っていたりするわけです。
しかし、テクノロジーのメリットを享受するためには、その“抜け”の確率をできるだけ下げようという姿勢で取り組むしかない。本当にそれだけしかないのです。誰かが問題を起こしたら、別の誰かが埋め合わせをする。工学というものはそういう関係性の上に成り立っているのです。
そこで重要なのは、そういう体制をきちんと組むこと。おそらく中国の新幹線が故障続きなのは、その体制が欠けているからでしょう。逆に日本の新幹線が壊れないのは、その体制ができているからです。
福島で原発事故が起きたのも、どこかでその体制づくりを甘く見ていたからだと思います。特に自然災害に対しては、相手をよく見極める姿勢が何より大事なのです。ですから、技術的な体制として絶対に漏れがないかと問われたら、「まだあるかもしれないが、それをなくすようにがんばる」というのが私たちの答えです。
(『それでも日本は原発を止められない』山名元、森本敏、中野剛志)
なるほど、希望派の人間には、なかなか、このような“抜け”を徹底的に探し抜くという姿勢を堅持することは困難なのではないでしょうか?人間の思考には、どうしても一定のバイアスが掛かってしまう以上、徹底的に問題の解決方法と希望を探し求め、ポジティブなビジョンを人々に提示する姿勢と、このような“抜け”を徹底的に探し抜くような姿勢を兼ね備えるということは並大抵の人間にはほとんど不可能に近いと思われます。しかし、それがどれほど困難であっても、やはりポジティブシンキングの力を信仰するならばそれと同程度に、藪のむこうにサーベルタイガーが隠れていないか警戒できる思考法をも同時に身に付ける必要があるように思います。
また、やはり基本的には忌避されがちであるネガティブな思考も、それは必ずしも否定されてしかるべきとは私は考えません。「絶望とは愚か者の結論なり」とは19世紀の英の政治家ディズレーリの言葉ですが、私は、この言葉には同意する気になれないのです。確かに全てに絶望し、ただただ悲観しながら日々過ごす者のは愚か者の結論かもしれませんが、一方で絶望感が心を覆っていても、「ただ、それが正しい行いであるから」と信じる行為をただ淡々と行うことが出来る人間も世の中には存在するでしょう。
人間は、失意と絶望のドン底にあっても、なお力強い活動を行なえるほどに、強靭な精神を持ちうるのであると私は信じます。
つまり、ポジティブシンキングも、ネガティブな思考もただ、それだけでは良いも悪いも判断できないのです。ポジティブシンキングが過剰になり、簡単に問題の認識の“抜け”を見落とすような姿勢は問題ですし、逆にネガティブな思考が過剰になり、絶望しきって何も行動を起こせなくなるような姿勢も逆の意味において問題なのです。しかし、ポジティブシンキングでも、しっかりと“抜け”について警戒し注意を怠らない姿勢、あるいはネガティブ思考でもやるべきことをしっかりとやり抜くという姿勢を保てるならば、それらの思考や精神はきっと人々の生活にとって有益であるはずです。
次回は、続きとして、このような姿勢を取るためには具体的にどうすればいいのか?という問題についてマインドフルネスという概念を用いて解説したいと思います。
2
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
保守的に物事を考えるのであればネガティブシンキングが有効でしょうね。
逆に設計主義的に物事を考えるのであればポジティブシンキングが有効でしょうね。
そう考えればネガティブシンキングが重要である事がわかります。
ただ物事にもバランスが必要でありどちらかに偏りすぎるのも問題である。
ポジティブシンキングって貸金業や高額商品メーカーにとっては神風ですから、
後の金策や支払い計画考えずに買っちゃいなよ(ローンくんじゃえ)という根拠や後ろ盾のないおススメみたいな状況に持ち込めるのです。