確定的な過去と未来の狭間で 劇評:KAKUTA『愚図』

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撮影:相川博昭

劇作家・演出家の桑原裕子が主宰するKAKUTAの新作『愚図』は、『痕跡』で桑原が第18回鶴屋南北戯曲賞を受賞(2015年)後、初となる長編作品である。ひき逃げ事故に遭い、その後に失踪した少年。家族や目撃者の証言によって、10年前に起こった事故の真相と少年の現在を徐々に浮かび上がらせるのが『痕跡』(KAKUTA/14年初演、15年再演)だ。劇中、母親と少年が邂逅するものの、互いに親子だと気付かずにすれ違うシーンがある。藪の中にも真実は確かにあると信じて求め続けながらも、ついぞ真実に行き当たることのない人間。そんな切ない人間の行方が描かれた作品であった。北九州の小倉を舞台にした『彼の地』(北九州芸術劇場プロデュース/14年初演、16年再演)は、小倉で生まれ育った者や東京からやって来た者たちが交叉する、総勢19人の群像劇。個別にそれぞれの事情や悩みを抱える彼らが出会い、ささやかに交流することで癒され、小倉にいる現状を肯定するようになる。ここでは、袖振り合う縁がもたらす思いもかけない効用が描かれていた。
 2時間10分の群像劇である『愚図』は、『痕跡』と『彼の地』で描いた事柄を合わせ、さらに展開したような作品となっている。人の運命やそれを左右する行動について、我々は本人の自由意思の下に行っていると考えている。しかし、もしかすると多くの行動は、人間関係や場の状況がもたらした偶然でかつ受身的な側面が強いのではないか。もっと言えば、我々が知らないだけで未来はあらかじめ決まっており、自分たちは必然的な運命の通りに行動させられているだけではないのか。桑原が群像劇のスタイルで描く劇世界に触れると、そのような思いにとらわれる。そこには、人間の関係性や感情の機微といったヒューマニズムな点だけでなく、もっと壮大なものが込められている。舌を巻くほどに上手い桑原の群像処理は、複数の場所で行動している人間を同時多発的に描きつつ、それらを包み込むさらに大きな世界で彼らを出会わせる。その空間とは、分割された小さなエリアを包摂する劇場空間全体である。と同時に、我々が生きている世界そのものにも通じている。個人が何を思って生きていて、他人にどのような影響をはからずも与えてしまうのか。そしてその影響を受けた人間が、さらに別の他人と出会ってその者に作用してゆく。桑原の群像劇は、個人と個人との出会いが、互いに無自覚なままに相互に影響を与え続ける様を描く。その影響の連鎖が、例えば『痕跡』では事故の真相に辿り着き、『彼の地』では様々な出自を持つ人が暮らす小倉という場所そのものを浮かび上がらせることになる。『愚図』では、白骨化した死体の特定とその者が辿った人生が中心に描かれることになろう。人と人が出会い作用し合うことで出来上がるこの世界の不可思議さ。それが普遍的な世界の法則のように感じるからこそ、人間が世界内存在であるかぎりにおいて、人の運命はあらかじめ決定付けられているのでは、という思いに駆られるのである。この世界観は、自らの父である王を殺し、母と結婚して子をもうけるという神託から逃れようとしながらも、結局はその通りになって自滅したギリシャ悲劇『オイディプス王』にも通じる壮大さがあるのだ。以下、本作を詳しく見ていこう。
 舞台面に楠田英雄(林家正蔵)と佐久間咲(多田香織)が現れる。スーツケースを提げた彼らは、どうやら沖縄へと逃避行に来たらしい。短いやり取りが交わされた後、別の場所、舞台後景の小高くなって草木が生い茂る場所に、会社員の塚本亜依(異儀田夏葉)とアニメーターの二岡保美(桑原裕子)がやってくる。物語が進む内に、恋人に振られて意気消沈した塚本が人目を避けるために、普段は人がやって来ない「ポンプ山」と呼ばれるこの場所にやってきたことが分かる。塚本の古くからの友達である二岡は、彼女に付き合って共にやって来たのだ。そんな2人が、ポンプ山で白骨化した死体を発見する。かなりの日数が経っていると思われるこの死体は誰なのか。なぜ死ななければならなかったのか。サスペンスフルな導入によって物語は動き出す。
 舞台空間は3つのエリアに分かれている。それぞれ別の場所と時間で起こる出来事が進行することで、物語は主に進行する。上手のエリアでは、①浮気を妻・クニ子(千葉雅子)に疑われた英雄を中心とする物語。下手では②沖縄へ赴いて父親と再会しようとする、腹違いの兄弟の物語。そして、③ポンプ山での塚本と二岡の物語。エリア分けされているとは言え、劇が進むにつれて登場人物たちは他のエリアの物語にも介入し影響を与える。そうして、次第に複雑な人間模様が形成されてゆく。ポンプ山へは下手から階段を上がって到達する。そのポンプ山を中心にして、ちょうど山裾のように上手下手のエリアが配置されている。各エリアで起こる出来事は別個のものでありながら、やがて他の物語と接続し、最後にひとつの大きな渦へと繋がってゆく作品構成は、2つのエリアを包み込むようにポンプ山が設計された舞台美術においても視覚的に示されているのだ。
 そして舞台を観進める内に、劇の時間は①②が過去の出来事で、③が現在であることが分かってくる。英雄がマネージャーとして勤務するスーパーの経理・咲と不倫していたのではないか。興信所の調査結果を受けて、クニ子とその妹の御手洗たま子(今藤洋子)は、英雄にそのことを突きつける。実際は不倫ではなく、英雄は咲と共謀して店の金を横領していたことが後に発覚するが、そのことはもちろんのこと、不倫も誤解であると彼は認めない。クニ子はそんな英雄と極力顔を合わせないように、夜の清掃の仕事を始める。職場でクニ子は、田中一郎(今奈良孝行)というリーダーの男に出会う。田中が受け持つ夜間の清掃場所は、夜逃げした風俗店やラブホテルといった所だ。田中には、時折変わった行動をする癖がある。悪場所で商いをしていた者たちが無念にも廃業し、夜逃げに追い込まれた悲しみや怒り。それを代弁するとして、怒声を挙げて灯油缶をめった打ちにするのだ。田中はクニ子に、体内に悪い気が滞留しないように、人間は時に感情を素直に発散することも重要だと諭す。その教えを受けたクニ子は、怒りのトレーニングと題したこの修練を積むことで、清掃の仕事にも対応できるようになり、おどおどとした性格も変わってたくましく成長する。劇後半には、英雄に堂々と渡り合うまでに至る。さて、田中が清掃業に従事するきっかけとなったのは、妻と死別したことにある。8年前、ある花火大会に妻と出かけた際、ささいなことで喧嘩になり、田中は妻とはぐれてしまった。妻はその後、河川敷でホームレスにレイプされてしまう。後日、警察に事件のことを相談している際に、精神的苦痛から妻はマンションから飛び降り自殺したのだった。それ以来、田中一郎の偽名で彼もホームレスとなって犯人を捜す日々を送りながら、清掃業で生計を立てていた。
 登場人物たちは皆、ぐずぐずと煮え切らない。本当は横領なのに正直にそのことをクニ子に話すことができず、不倫を疑われたままの英雄。そのためにクニ子との関係はどんどん悪くなる。やがて横領の事実を突き止めたたま子からは、口止め料としてスーパーにやってきては店の品物を幾度となく要求されてしまう。たま子はアンティーク雑貨を扱う店を経営し、歯科医の夫と子どもがいながらもどうやら満たされない思いを募らせているらしい。不倫問題で不安定な状況に置かれたクニ子が、劇的な局面を迎えているように思えたたま子は、そのことを羨ましくさえ思い始める。そのために姉の問題に過剰に首を突っ込むことで、自身の生活を刺激的にしようとしているのだ。そして田中は劇後半において、妻を死に追いやったボブマリと呼ばれるホームレスをついに探し当てるも、病気で死に瀕していることを勘案して、結局は殺すことをためらってしまう。
 そのようにして態度を保留し続ける登場人物たちのその後の明暗に、人間の運命の不可思議さを感じずにはおれない。失恋で現実逃避しにポンプ山にやって来た塚本は、いつまで経っても帰ろうとしない。そのことに対して、二岡と時にケンカになりながらも、ずっと彼女が傍にいてくれたことで塚本は救われる。②では、沖縄に来たものの父親に会うか否か決心を付きかねている飲食店店長・小畑勇(成清正紀)は、横領がバレて逃避行中の英雄と出会って意気投合。行動を共にする内に、小畑はそのことを英雄に吐露する。話を受けた英雄は、離反して生活をしている父子にクニ子との関係を重ね、父親と会うように小畑を説得する。そのことで英雄も、妻ともう一度話し合うことを決意し、家に帰ることにする。たとえ今さら正直に打ち明けても、クニ子からの許しはもらえないかもしれない。とはいえ、今度こそ腹をくくった英雄には、ふっきれたことによる不思議な安堵感が訪れたのではないか。スーパーの廃棄弁当をガード下のホームレスたちに振舞っていた英雄は、沖縄から帰ってきた際も、同じように弁当を配ったのだが、その中の一人、ボブマリが死んだことを知る。先の安堵による急な睡魔に襲われたのか、それともボブマリを追悼するためか。英雄は家に帰る前に、充実した表情で、ボブマリの上着を掛け布団にしてその場で寝てしまう。しかしそのことが原因となって、英雄は清掃員の市川文子(四浦麻希)にバットで撲殺されてしまう。田中が殺し損なったボブマリを、彼の恋人である市川が代わりに殺害しようと犯行に及んだのだ。その様子を見ていた田中は、死体を廃工場がある地点へと運ぶ。そこは人気のない場所であり、地元の人からはポンプ山と呼ばれていた……

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撮影:相川博昭

そう、③で白骨化していたのは英雄だったのだ。舞台冒頭から終演まで、現在の時制からずっと①と②で起こる出来事を「見ている」頭蓋骨は、世界認識についての重要なことを示唆する。頭蓋骨となった英雄が真実を知ることができるのは何かの事後、この場合は死んだ後、回想のような格好を取ることで可能となったのである。死んでどうしようもなくなった英雄の頭蓋骨が訴えかけるのは、人は自身の行動がどのような結果をもたらし、他人にどのような影響を与えるのかを決して事前に知ることはできないということである。英雄がもしボブマリの上着を羽織って寝なかったら殺されることはなかったかもしれない。その前にもし、田中がボブマリを殺害していればその危険は取り除かれていたはずだ。田中は内なる激しい怒りを抱えながら、妻を殺した犯人を8年もの期間をかけて執念に探し当てた。そのことを知っていた市川は、自分のためにもボブマリをどうしても殺してほしかった。なぜなら、かつて市川はガード下に田中と訪れた際、ボブマリに身体を触られたことがあったからだ。田中の怒りは妻を思うが故のものであるが、それを今の恋人である自分のためでもあってほしかった。だからこそ市川は、逡巡の末に行為を全うできなかった田中を、自分への愛がそこまでのものでしかなかったのだと受け取ってしまう。そんな怒りと悲しみも入り混じった感情で、市川は自らの手で殺害を実行してしまったのである。
そういったもろもろの出来事の全ては、もし英雄がレジから小銭をくすねているところを咲に見つかっていなければ、起こらなかったかもしれない。そうだとすれば、咲に半ば脅されて、領収書を書き代えてまで横領するというエスカレートした行為も回避できたはずだ。当然、クニ子から浮気を疑われて家庭が崩壊することもなかったかもしれない。ほんの出来心で店舗のレジから小銭をくすねさえしなければ…… あの時あんなことをしていなかったら、という堂々巡りの後悔の発端は、ほんの些細な行為がもたらしたものであった。小さな行動のひとつが他者や場の状況を次々と変化させ、自分の次なる行動を規定してゆき、それが思わぬ事態を引き起こすこと。ぼたんの掛け違いがもたらす大きな悲劇について、英雄は全てが終わって白骨化した今なら分かるが、生きていた当時は思いもしなかったろう。過去に起こった出来事は、未来の自分のための教訓を引き出すことはできる。しかし、過去を修正することは決してできない。動かし難い事実である。とすれば、未来に起こる自分の運命も、自らが知らないだけで既に運命付けられているのかもしれない。我々ができることは、常に不測の状況に場当たり的に行動することしかない。未来は予測したり予見はできても、それを決して確定された事実として予知することは不可能なのだ。ポンプ山から過去を回想する白骨化した英雄は、自らの行動が引き起こした結果についての大きな後悔を滲ませつつ、決して知ることができない人の運命の不可思議さを我々に伝えようとするように鎮座していた。
 しかし、悲劇を迎えない登場人物もいる。それは先に記したように、二岡によって救われる塚本であり、英雄と交流したことで父親と再会することを決意した小畑である。拗ねている塚本に嫌気がさして二岡が本当に先に帰っていたら、そして英雄が横領せずに沖縄に来なかったら、彼らの運命はまた変わったことだろう。舞台は、英雄とクニ子、塚本と二岡という明暗が分かれた人物にスポットを当てて幕となる。複雑な人間模様を成す舞台は、偶然がもたらす人の幸と不幸をくっきりと浮かびあがらせる。とはいえ、運命が偶然の出来事の積み重ねである以上、桑原は人生が上手く行った者に肩入れして肯定したり、優劣をつけて教訓めいたメッセージを発したりはしない。ただ、人の運命をフラットに提示するだけだ。人はその時々の状況に思い悩み、立ち止まってぐずぐずとしながらも、懸命に生きている。そして、幸運にも死ななかった者は、反省し後悔を抱きながらも、より良い人生になるように、次なる選択をするのだろう。それが、未来を知らない私たちに唯一できることである。そのような実生活者の視点を、桑原はこの作品に込めているのだ。

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撮影:相川博昭

 以上、本作を詳しく見てきたが、ここまで読んだ方は本作が非常にダークなトーンで支配されているように思うかもしれない。だが、ポイントポイントで笑いを取ったり、賑やかなダンスシーンを挿入するなど、演劇ならではのエンターテイメント要素もしっかりと込められている。このような緩急の付いた舞台は、決して自分だけが目立とうとしないチームワークの良い俳優達が支えている。俳優の演技と本作のテーマが合致しているのもポイントだ。それは田中がクニ子に伝授する怒りのレッスンである。誰かに成り代わって怒りを表現し、その思いを浄化するというこの行為は、別の人間になって虚構を生み出す俳優の仕事そのものだ。俳優は役という別人格を生きているのではない。役を通して別の自分を発見し演じているのである。時に、俳優が役と自らの境界線があいまいになることがあるのは、役によって発見させられた別の自分を発見し生きているのである。それが一瞬の内に生じているからこそ、役柄と俳優自身が連続しているように感じるのだ。俳優がそのような状態になれるのも、相手役の反応を受けて、時々の状況に生に応対するからこそ。俳優の仕事に孕まれるこのような魅力もまた、事後的にしか何かを発見できない人間そのものの生態を示しているのである。(2016年11月18日ソワレ、あうるすぽっと)

西部邁

藤原 央登

藤原 央登劇評家

投稿者プロフィール

1983年大阪府生まれ。劇評家。演劇批評誌『シアターアーツ』などに、小劇場演劇の劇評を執筆。共編著『「轟音の残響」から――震災・原発と演劇』(晩成書房)

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