村上春樹における文学と政治 ―デタッチメントとコミットメント

【空虚な政治発言2 ―ナショナリズム批判等】

(ⅰ)国防意識は安酒の酔いか?

 2012年9月、日本の尖閣諸島国有化に中国共産党と政府は強く反発し、同時に民衆の激しい反日暴動が中国各地で連日多発した。暴動が当局の規制で鎮まった頃の9月28日、村上春樹は日中の文化交流が後退することを憂慮する文章を朝日新聞に寄稿した。

 この中で村上春樹は、領土問題をめぐる国民感情を「安酒の酔い」に譬え、その危険性について警鐘を鳴らしている。それは日本人の国民感情を指しているのか、中国人の国民感情を指しているのか、この文章では明確に名指してはいない。両国を含む国民感情一般と捉えることもできるが、文章全体の流れやニュアンスから読解すると、警鐘は専ら日本人の反中感情の高まりに向けられているような仕組みになっている。このへんの村上春樹の文章作法にはいささかのアンフェア―さを感じざるを得ない。アンフェア―さなど、村上春樹の文学作品にはまったく見られないというのに。

 専ら中国が大衆の劣情を刺激するような手法で反日感情の昂揚を煽っているのだ。「安酒の酔い」に譬えるような警鐘は中国に向けて言うべきことだろう。なぜ日本人に向かってお説教を垂れるのか。今の(あるいは文章寄稿当時の)日本人にナショナリズム志向の兆しがあるとするなら、それは自国の防衛に不安があることへの憂慮から生じたものだろう。そしてその心配は村上春樹からお説教で叱られるような性質のものではない。法整備を含めて、冷静かつ真剣に考えなければならない重要なテーマのひとつである。

 村上春樹は、領土問題を国民感情の領域に踏み込ませず、「実務的に解決可能な案件」として扱わなければならないと主張する。

 平たくいえば「外交交渉で解決しましょう」ということだろう。TVの街頭インタビューで突然マイクを向けられた通行人が「話し合いでなんとかしてもらいたいですねえ」と答えているのと大差がない主張だ。

 もちろん武力衝突を回避するための外交上の努力はきわめて重要である。たとえ局地戦であっても、戦争は極力回避せねばならない。そしてそのような外交上の交渉を担保するものは「力」にほかならない。「力」を形成するのは武力であり、インテリジェンス(情報力)であり、経済力であり、国民が共有できる歴史観と国家観であり、国際世論へ訴えかける努力である。

 村上春樹の寄稿文で語られている「実務課題としての領土問題」は国民から切り離されたところで浮遊している。そんなアクロバティックな解決法は夢想の中でしかあり得ない。

(ⅱ)「平和憲法」をめぐる発言

 村上春樹のこのようなナショナリズム批判は、憲法9条を擁護する発言と同根である。

 バルセロナでのスピーチから5か月後の2011年11月、村上春樹は東京でオーストリア人のジャーナリストからインタビューを受け、それがオーストリアのラジオ局で放送された。インタビューはこのジャーナリストによって本にもまとめられたが、その日本語版への掲載は村上春樹によって拒否された。拒否の理由はわからないが、インタビューの要旨はジャーナリスト桐島瞬の取材によってまとめられ、ネットマガジンalternaに掲載されている。本稿での引用はalternaに拠っている。

 日本の原子力政策への批判は、バルセロナでのスピーチと同じ趣旨であるので、ここでは繰り返さない。但しこのインタビューでのほうが、村上春樹の論調は激しくなっている。

 ここで俎上に上げるべきは憲法9条と非核3原則についての村上春樹の発言である。

 村上春樹は日本人の偽善を批判している。

日本の憲法はいまもって核兵器に反対し、その製造、所持、配置を放棄している。これは偽善だ。アメリカ軍が日本の米軍基地に核兵器を持っていることは一般的に知られているのに、誰もが何も知らないかのように振る舞っているからだ。憲法第9条が、長い間「平和条項」と特別に呼ばれてきたことは誰もが知っているはずだ。沖縄の米軍基地に核兵器があることをみんな知っているのに、知らないふりをしたため、中身の無い平和憲法になってしまった。憲法9条が骨抜きというか、守られてこなかったことは、日本人なら誰でも知っていること。

 憲法9条とひと言でまとめているが、まず同条の1項と2項の関連から語るべきだろう。改正にあたって、国際平和を謳った1項は継承するが、戦力の不保持と交戦権の否定を規定する2項は廃止すべきだという意見もあるのだ。

 そして、非核3原則が憲法9条で規定されているという意味の発言は、無知でなければ、デマゴギーである。
 核兵器の保有は憲法第9条2項で許容される範囲内のことであり、非核3原則は憲法とは別の政策上の問題である、とするのが政府の公式見解である(1978年参議院予算委員会での内閣法制局長官答弁)。

 もちろん政府の公式見解に反する意見があってもよい。憲法9条2項も非核3原則もどちらも欺瞞であるとする意見もある(私はこの立場である)。村上春樹が彼の立場で政府の公式見解を否定するのなら、それはそれでよい。ならば、憲法9条の趣旨から考えて非核3原則は守らなければならないとかの論証をまずおいてから、上のような主張につなげるべきだろう。

 村上春樹はあたかも非核3原則が憲法9条で規定されているかのような錯覚を、万人が共有している自明の公理として話を始めているのだ。日本の憲法など読んだことがないオーストリア人のリスナーや、諸外国で読まれたであろうその本の読者は、日本は憲法で核兵器の保有・製造・持込みの禁止を明文規定しているのだと誤解すること必定である。

 これは村上春樹の発言作法の問題である。政治発言になるとなぜアンフェア―な態度が出てくるのだろう。

(ⅲ)戦争責任についての発言

 村上春樹はインタビューで、少年時代に歴史書をたくさん読んだと、書名を列挙しながら語っている(ロングインタビュー・『考える人』2010年夏号)。中央公論社の『世界の歴史・全30巻』は中学生の頃から高校生にかけて何度も繰り返し読破したそうだ。

 作品『ねじまき鳥クロニクル』では歴史がサブテーマであり、ノモンハンでの戦闘をくぐり抜けて生還した間宮中尉の長い話が第1部でも第3部でも大きな位置を占めている。
しかし、作品でも、発言でも、縦の時間軸という意味での歴史感覚が伝わってこない。これについては後述する。

 村上春樹は原発事故についての日本人の無責任さへの批判と併せて、先の戦争に対する日本人の責任感覚の欠如について言及している。

終戦後は結局、誰も悪くないということになってしまった。悪かったのは軍閥で、天皇もいいように利用され、国民もみんなだまされて、ひどい目に遭ったと。犠牲者に、被害者になってしまっています。それでは、中国の人も、韓国・朝鮮の人も怒りますよね。日本人には自分たちが加害者であったという発想が基本的に希薄だし、その傾向はますます強くなっているように思います。(2014年11月3日毎日新聞でのインタビュー。以下の引用に当たっては「14年・毎日」と略記する)

 戦争責任を云々するのなら、その戦争をどのように評価するのかという価値観が前提になる。しかし村上春樹が自分の歴史観に基づいて先の戦争をどのように理解しているのかということについては一言も語らない。このインタビューだけでなく、他の発言の機会にも語っていない。

 「前の戦争をどのように理解しているのか」ということを話題にあげただけで、「戦争は悪いに決まっているじゃないか。お前何を言ってるんだ」と反発が返ってきたりするのが、今の大衆世論の中でも最も低いレベルでの反応だ。

 村上春樹の政治発言の特徴は非政治的位置から政治問題を語るという点にあるのだから、彼も「戦争は悪いに決まっているから出発しているのかもしれない。

 良いだの悪いだのを言う前に、人類は有史以前から集団同士で争い、歴史上も戦争に明け暮れてきたのだ。戦争の悲惨な被害と悲劇を極力避けるためにも、戦争について考えることは必要なのである。

 先の戦争について村上春樹の理解の仕方がまったく不明なので、戦争の責任とは何を意味しているのかがよくわからない。それで加害者意識が希薄だと批判されても、対応の仕様がない

 先の戦争は明治維新以来の(幕末から通算すると)約100年の歴史の中で捉えるべきであり、日清・日露・第一次大戦を踏まえて、そして諸列強の戦略とを合わせて考察すべきものと私は考える。そのうえでの責任ということになると、村上春樹は日本の近代化のあり方そのものを問題にしているのだろうか。もしそうなら、ぜひその考えを発言の中に加えてもらいたい。

 それとも1941年無謀な開戦に踏み切った責任を問うているのだろうか。ならば軍閥がどうしたとか言う前に、日本を追い込んだアメリカの視点も含む視野で歴史を考えてもらいたい。日本の戦争は、日本の内部だけを見るのではなく、中国や諸列強の視点も加えて捉えなければならないのである。

 遡って、日中戦争を泥沼化させた近衛内閣の責任を問題にしているのだろうか。さらに遡って、満州事変での関東軍参謀の責任なのだろうか。日清、日露はよかったが、昭和に入って日本は堕落したという通俗史観なのだろうか。

 いずれにせよ、村上春樹のいう「責任」の意味が不明で、空虚な発言と言わざるを得ない。

 日本人に加害者意識が希薄だから中国・韓国・朝鮮人が怒るのだと村上春樹は言う。
しかし戦争は国家と国家の問題であり、その責任の取り方は賠償によって解決する。サンフランシスコ講和条約調印国とは解決済みである。

 それ以外では、中華人民共和国は日本への賠償請求権を放棄した。賠償額は一般に加害国の残置資産の額と相殺されるので、中国は請求権を放棄したほうが実利ありと判断したのだ。そのかわりに日本は総額3兆円以上にのぼる巨額のODAを供与し、中国の経済発展に大きく寄与した。

 韓国は交戦国ではないが、併合の責任を日本は取った。(多くの人が誤解しているようだが、併合annexationと植民地化colonizationは意味が異なる) 韓国の場合、査定賠償額よりも残置資産の額の方が遥かに大きくなるので、韓国は実利上当然請求権を放棄し、残置資産を無償で取得したうえ、さらに巨額(当時の韓国国家予算の2倍以上)の経済協力金を受け取り、これが漢江の奇跡と呼ばれる急速な経済発展の元手となった。

 中国が日本の戦争責任をことさらに言いたてるようになったのは江沢民時代以降だが、それはもちろん、日本を属国化し海洋大国として東アジアに覇権を確立することを目的とした中期戦略のもとでの戦術なのである。

 それに対して村上春樹は、日本人の加害者意識が希薄だから中国人が怒っているのだと言い、この程度の発言に毎日新聞は「日本の問題は責任回避」と大きな見出しを打っている次第である。まるで神の御託宣が下ったかのような扱いだ。やれやれ。

 さらに別の指摘をする。

 村上春樹は、「悪かったのは軍閥で」国民はみんな被害者ということになってしまったと、日本人の無責任さを批判し、「それでは中国の人も、韓国、朝鮮の人も怒りますよね」と言っている。しかし「悪いのはひと握りの日本軍国主義者であり、広汎な日本人民は皆その被害者なのだ」という論法は中国共産党が言い出したことであり、国交正常化前から、中国を訪問する経済界その他民間の日本人が歓迎の言葉とともに聞かされる決まり文句だったのだ。村上春樹は基本的な事実認識でも間違っている。

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西部邁

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コメント

    • 吉田勇蔵
    • 2014年 12月 14日

    〔訂正〕
    p.5【オウム真理教事件が与えた衝撃】の章で上から7行目に「1978年の時点で」とありますが、正しくは「1982年の時点で」です。筆者の誤記です。訂正します。

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