村上春樹における文学と政治 ―デタッチメントとコミットメント

【空虚な政治発言1 ―日本の原子力政策批判】

(ⅰ)核利用は悪か?

 2011年6月バルセロナでのスピーチで、村上春樹は福島原発の事故について語っている。事故発生からまだ3か月後のことでもあり、被害の拡大の見通しについて、村上春樹は今から見ればいささか過大に悲観的な予測をしているように思える。それはいいだろう。当時は多くの人が同じ不安を抱いたものだ。そして今の時点で考えても、原発事故がもたらす被害は、場合によっては国の存亡にも関わるリスクをはらんでいるという認識を正しく持っておく必要がある。

 ここで村上春樹は一足飛びに広島、長崎への原爆投下の惨事と福島原発の事故とを並列し、核の被害という概念で一括りにする。村上春樹は広島の原爆死没者慰霊碑に刻まれている「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」という言葉を紹介し、再び核の過ちを犯した戦後日本人の経済効率主義を批判する。

 慰霊碑に刻まれている上記の言葉は多くの人々が知っている有名な言葉である。そして「過ち」の主語がぼかされていることが、しばしば論議の種になってきた。間違った(?)戦争を遂行した日本人の過ちなのか、あるいはこのような大量殺戮兵器を使用したアメリカ人の過ちなのか、はたまた核兵器を生み出してしまった近代科学文明の過ちなのか・・・
〔補足〕「過ちを繰り返しません」の解釈について最近は新説もあるようだが、ここでは深入りしない。

 村上春樹は語る。

核という圧倒的な力の脅威の前では、私たち全員が被害者ですし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、私たちはすべて加害者でもあります。(11年・バルセロナ)

 やはり主語がぼかされている。「その力を引き出し」「その力の行使を防げなかった」のは戦争を遂行した日本の軍国主義のせいなのか、あるいは当時のアメリカ政権の容赦のない決断を指しているのか、はたまた核兵器を作り出し、のみならず使用してしまった人類の罪なのか・・・ 村上春樹は「私たちすべてが加害者」としているのだから、原爆投下がもたらした大惨事を人類全体の罪と捉えているのだと理解できよう。

 大きく文明史論的見地から考えると村上春樹の言うとおりかもしれない。しかし政治の世界では、アメリカは「被害をこれ以上大きくせずに戦争を早期に終結するためのやむを得ない手段だったのだ。責任は日本にある」と主張し、ひるがえって日本では、アメリカの主張に迎合する意見と、原爆投下はアメリカの戦争犯罪であり人道上の犯罪だという主張に国論が分かれている。多くの日本人はアメリカの責任を追及することはせずに日米関係のあり方を未来に向けて考えているが、原爆投下の責任について問われれば、それはアメリカの戦争犯罪であると理解している日本人が多数であろう。いずれにせよ、このように異なる主張がぶつかり合うのが政治の世界なのである。その場で高みに立って文明史論的高説を垂れても、お説ごもっともで済んでしまう。のみならず、お説ごもっともな高説は、政治の世界では党派的に利用されたりもするのだ。

 悠久の生物の営みと進化の歴史を通じて、ほとんどの生物は直接間接に太陽光エネルギーを取り入れることによってのみ命をつないできた。しかし近代科学技術文明は核エネルギーを利用することに成功した。人間自ら小さな太陽を作り出したようなもので、ある人の眼には神をも畏れぬ行為だと映るかもしれない。しかし好むと好まざるにかかわらず後戻りができないのだ。

 多くの人々が核兵器の廃絶を叫んでいる。仮に全世界的に核兵器の廃絶が実現しそうになった状態を想定するならば、その瞬間にある国若しくは集団が核兵器を独占し、彼らが全世界を独裁的に支配することになるにちがいない。核兵器の技術を知ってしまった人類には、その部分について全員が記憶喪失にならない限り、核兵器の廃絶は不可能だろう。

 今後の人類が取り組むべき課題は、残念ながら核兵器の廃絶ではなく、いかにして核戦争を回避するかという政治上の努力なのである。この政治の世界で、高みに立って核兵器廃絶の主張をする者は、お説ごもっともと、党派的に利用される結果になるだけだ。

 福島の原発事故から書き始めて脱線してしまったようにも思えるが、それは村上春樹のスピーチが原発事故と原爆投下を一括りにしているからである。

 村上春樹はスピーチで核兵器の廃絶を直接訴えているわけではない。しかしバルセロナでのスピーチから5か月後にオーストリア人のジャーナリストから受けたインタビュー(後述)と合わせて考えると、村上春樹は核そのものを悪とし、日本人は、というよりも人類は核利用から一切手を引くべきだと主張していると理解して間違いないようである。

(ⅱ)原子力政策への批判

 核兵器の廃絶は不可能だと先に書いたが、原子力発電を廃止することについていえば、長期的には実現可能性があるだろう。但し相当に長期、かなり遠い未来だ。

 村上春樹は主張する。

私たちは技術力を総動員し、叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求するべきだったのです。(11年・バルセロナ)

 日本の原子力政策はサンフランシスコ講和条約発効直後からスタートするが、このときの日本の国家政策が村上春樹の主張するような方向に舵を切っていたとして、はたして1960年代、70年代に実りあるエネルギー開発が成功していたかどうかについては、「タラレバ」の話になるので何ともいえない。過去はひとつしかないのだ。

 村上春樹の主張を今後の日本の進路についての教訓として受け止めるのなら、安全で有効なエネルギー開発が実現し普及するまでの相当の期間、日本のエネルギーをどこから得ていればいいのだろうか。

 現在及び予測し得る将来(10年程度のスパン)において、太陽光発電や風力発電等の再生可能エネルギーによって得られる電力量は、従来の水力発電を含めて、全体の10%程度である。しかも不安定な電源だ。村上春樹のいうように「叡智を結集」すれば30年後には新たな展望が開けるとしても、それまでの間はどうすればいいのだろうか。

 原発を停止させ主として火力発電に頼っている今、化石燃料の輸入費用は膨大な額になっている。2013年の火力発電の追加燃料費は、福島原発事故以前の年に比べて3兆6千億円増加している(経産省の調べ)。こんなことをいつまでも続けられないことぐらい、子供にでも解ることだ。

 この1日当たり100億円ずつの追加費用というのは、世界が概ね平穏なままであればという前提による。そんな前提がいつまで保たれるだろうか。中東情勢の不安定化、南シナ海のシーレーンの封鎖等の危機は目に見える近未来の現実だ。ほぼ全面的に化石燃料に依存しているような状況であれば、そのとき日本人の生活は悲惨なことになるだろう。1940年代日本が米英との戦争に追い込まれたトリガーは、エネルギー供給の途を絶たれたことだった。

 再エネの活用という方法があるじゃないか、今のままでうまくやれているじゃないか、という意見はどちらも無知から出てくる発想で、その無知に乗じて世論を煽るメディアや勢力がある。

 村上春樹の主張は単純に無知からくるものではなく、非政治的な高みから政治的な主張をしているという点に特徴がある。

 政治は高度に現実の営みだ。現実の問題に取り組むことを課題とした営みである。

 村上春樹は語る。

原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」にすぎなかったのです。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。(11年・バルセロナ)

 拙文で上に述べたように、エネルギーの安定供給を確保することは単に「便宜」のためではなく、一国の存亡にも関わってくる安全保障政策の問題でもあるのだ。村上春樹はスピーチで、電気の不足を夏場にエアコンを使えるかどうかというような矮小な譬え話に「すり替え」ている。一国の安全保障に関わる現実の問題を「便宜」の問題に「すり替え」ている。

 もっとも電気そのものが「便宜」追求の所産で、便宜の追求が近代技術文明をもたらしたともいえるが、村上春樹もそこまで巨視的な高みから言っているのではなかろう。

 村上春樹にとって原発事故がもたらす惨事は「現実」なのだろうが、エネルギー安全保障政策の破綻がもたらすであろう惨事もまた「現実」的なリスクなのだ。
 原発を利用する以上、安全について可能な限りの対策を立てるべきであることはいうまでもない。現状は、地震や津波対策に関心を向けている割には、テロ対策がおろそかにされている。一層の安全対策への取組みが必要であるが、それでもなお「絶対安全」ということはあり得ない。

 二種類のリスクの問題なのだ。

 連立方程式を立ててものを考える能力あるいは姿勢がない者に政治的問題を語る資格はない。

 この小論は原発廃止の是非を論じることを目的とするものではない。政治とは、問題の相対的解決を模索する知性の営みだというのみである。

→ 次ページ「空虚な政治発言2 ―ナショナリズム批判等」を読む

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西部邁

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コメント

    • 吉田勇蔵
    • 2014年 12月 14日

    〔訂正〕
    p.5【オウム真理教事件が与えた衝撃】の章で上から7行目に「1978年の時点で」とありますが、正しくは「1982年の時点で」です。筆者の誤記です。訂正します。

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